卑弥呼は天皇家と関係がある人物だった?!
天皇家との関わりは?
邪馬台国の女王「卑弥呼」について解明されていない点は数多くあり、確かなことはよくわかっていません。
しかし最近の考古学の研究によって、天皇やその一族と関わりがある人物なのではないかという可能性が高まってきました。
卑弥呼と天皇には何か関係があるの?
天皇の歴史をたどると、およそ5世紀ごろまでさかのぼります。
5世紀ごろ畿内地域で勢力を誇っていた豪族連合(大和朝廷)のトップを「大王」といい、それが現在につづく天皇の祖先です。
これに対して卑弥呼は2世紀後半から3世紀前半を生きたと考えられますので、時代に大きなズレがあります。
また邪馬台国の場所も明らかではありませんので、何らかの証拠が得られない限り卑弥呼と天皇には直接の関係があるとはいえません。
しかし『古事記』や『日本書紀』に登場する「ヤマトトトヒモモソヒメ」(「倭迹迹日百襲姫命」または「夜麻登登母母曾」)という皇女は、卑弥呼のイメージに近い女性とも言われています。
今後の考古学上の発見や歴史研究の成果いかんによっては、ひょっとすると「天皇と関係がある」という可能性も否定できないわけです。
箸墓と卑弥呼
奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)には、「箸墓(はしはか)」という3世紀ごろに造られた前方後円墳があります。
この古墳は現在、宮内庁によって管理されています。
歴代の天皇、皇后や皇族らが埋葬されている「陵墓(りょうぼ:天皇やその皇妃の墓)」であるため、一般の市民や研究者などによる自由な立ち入りは認められていません。
この箸墓には、前述のヤマトトトヒモモソヒメが眠っているとされています。
箸墓が造営された時期は3世紀後半。
これは卑弥呼が死んだと考えられる時期と同じです。
このことから、ヤマトトトヒモモソヒメは卑弥呼だったのではないかと推測できます。
また箸墓は長さがおよそ280メートル、高さは30メートルもあり、日本の古墳のなかではとても大きいです。
中国の歴史書『魏志倭人伝』には「卑弥呼が死んだときには大きな墓を造って埋葬した」と記されていますので、規模の点でも卑弥呼の墓だという可能性が十分にあります。
箸墓だけではありません。
纏向遺跡(まきむくいせき)からは邪馬台国の宮殿ではないかと指摘される大型の建物跡も見つかっており、この点も『魏志倭人伝』の記述と一致しています。
纏向遺跡=邪馬台国(の都)、ヤマトトトヒモモソヒメ=卑弥呼という説が、一つの仮説として有力になってくるわけです。
この仮説にしたがえば、卑弥呼は天皇の祖先と断定できないまでも、少なくとも天皇家と関わりのある人物という可能性があることになります。
長いあいだ謎とされていた卑弥呼の存在ですが、考古学の研究が進み多くのことが明らかになってきました。
まだ推定や仮説の域を出ませんが、卑弥呼が天皇一族に関わりがあるという可能性は十分にあります。