卑弥呼と一緒に100人が生き埋め!死後に必要だったお世話役と生けにえ

「奴」(漢字辞典『説文解字』より)

卑弥呼が亡くなったとき、なんと100人以上もの人間が生き埋めにされました。
現代では考えられない奇妙な出来事ですが、これには理由があります。

ひとつは死後の世界で卑弥呼が困らないために、というもの。
もうひとつは、神さまへのお供え物という理由です。

お世話のためと神様のため

卑弥呼と一緒に埋葬された人たちは、全員が奴婢(ぬひ)と呼ばれる奴隷だったといわれています。
この奴隷は主人の身の回りのお世話をする人々です。
当時は、主人が死んだとき死後の世界でも主人のお世話ができるよう一緒に生き埋めにされました。

卑弥呼が亡くなり埋葬されるときも、こうした生き埋めが行われています。
死後の世界で卑弥呼が生活に困らないようにするため、彼女のお世話役として大勢の奴婢が生き埋めにされたのです。

また、このような生き埋めには、神様へのお供え物という意味も込められていました。
「お供え物」というと現代では花やお菓子のイメージが強いですが、古代では神様へのお供え物として人の命をささげることがあったそうです。
とくに大きな災害が起きたときは、神の怒りを鎮めるべく人を生き埋めにすることがあったといわれています。

当時、卑弥呼は神様の声を聞き政治を行っていました。
雨乞いの儀式によって日照りを終わらせたという逸話があるくらいです。

そんな卑弥呼が亡くなったとき、民衆のあいだには再度の災害への不安が広まりました。
そこで厄払いのような形として、彼女のお墓に大勢の人をお供えしようということになったわけです。

モノ扱いされた人々、奴婢

さて、卑弥呼の埋葬時に一緒に生き埋めにされた「奴婢」という存在。
この奴婢は、人ではなくモノとして考えられていました。

前項で少し触れましたが、奴婢は今でいうところの奴隷のことです。
奴は男性を、婢は女性を表しており、男女の奴隷をまとめてこう表現していました。
彼ら・彼女らにはいくつかやることがあり、権力者の身の回りのお世話も仕事のひとつだったといわれています。

また、奴婢は家畜と同じように売り買いされていて、お金さえあれば誰でも買うことができたそうです。
お金で売り買いされるということは、主人は奴婢を人ではなくモノとして見ているということになりますね。
いらないと言われたら主人のもとを去る必要がありました。

また、モノ扱いなので主人の死後に生き埋めにされても文句は言えません。
卑弥呼が亡くなった際には、100人以上の奴婢が「モノ」として一緒に死んでいったというわけです。

生き埋めがなくなったのはいつ?埴輪の登場

少し余談ですが、こうした生き埋めの風習は日本の「空白の100年」の間になくなりました。
卑弥呼が亡くなってから天皇が出てくるまでのあいだです。
『日本書紀』に、風習がなくなった理由が記述されています。

ある王が亡くなったとき、生き埋めされた人が埋められたまま数日ほど生きていたのを武内宿禰(たけのうちのすくね)という人物が見ました。
宿禰が天皇に「ちょっとひどいのでは?」と進言すると、天皇は生き埋めを止めにしたそうです。

代わりに人や馬の形に作った焼き物、埴輪が使われ始めます。
このあたりから生き埋めの風習が無くなっていったのです。

卑弥呼とともに亡くなった大勢の人たちはただ生き埋めにされたわけではありませんでした。
死後の主人のお世話、神様へのお供え物という一種の信仰心にもとづいた行動だったわけですね。

とはいえ現代のわたしたちからすると、過激な宗教のようにも思えてしまいます。
今の時代まで生き埋めの風習が日本に残っていたら、世界中から非難されることでしょう。

この記事を書いた人

歴史スター名鑑 編集部

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