紫式部は藤原公任と恋仲だった?ふたりの出会いにまつわるエピソード
藤原公任
光源氏を主人公とした恋愛小説『源氏物語』の作者・紫式部。
派手な色恋が描かれた著書とは対照的に、彼女自身は生真面目な性格で、その恋愛に関する記録は非常に少ないです。
紫式部は20代なかばで結婚した後わずか3年で夫と死別しており、それ以降は再婚したという事実がありません。
そんな彼女ですが、貴族の藤原公任(ふじわらのきんとう)と恋仲だったという説があります。
藤原公任ってどんな人?
藤原公任は平安時代の貴族で、歌人としても活躍していました。
家柄が非常によく、祖父や父親は天皇の側近を務めており、母親や妻は天皇家の血筋です。
彼自身も大納言という役職につき、国の政治にたずさわっています。
公任はとても多才な人物で、学問のほか、芸術的センスにも恵まれていました。
漢詩・和歌・音楽の才能を兼ねそなえ、「三舟の才」(さいしゅうのさい)とも評されていたそうです。
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
これは公任が残した和歌のひとつで、100人の歌人から100の和歌を集めた『小倉百人一首』にも採用されています。
ちなみにこの百人一首には公任だけでなく、紫式部の和歌も選ばれました。
紫式部と藤原公任の出会い
夫を亡くした紫式部は、宮中(皇居)で働くようになります。
紫式部が宮中での出来事を記した『紫式部日記』には公任が登場しているため、このころのふたりに面識があったのは間違いないでしょう。
ともに天皇のもとで働いていたわけですから、宮中で出会っていた可能性は高いです。
しかし紫式部と公任の初対面は、もっと前だったともいわれています。
紫式部には、結婚する前、天皇の子・具平親王(ともひらしんのう)に仕えていたという説があります。
具平親王は詩や和歌に通じていて、歌人との交流も盛んでした。
交友関係のなかには公任の名前もあり、公任ら歌人たちが、具平親王のもとを訪ねることも多かったようです。
紫式部が具平親王に仕えていたのが本当だとすれば、ここで公任と出会っていてもおかしくないでしょう。
のちに源氏物語を書き上げる文学少女と、いっぽうは才能ある歌人ですから、共鳴する部分もあったかもしれません。
ただ、これはあくまで出会った可能性があるというだけです。
紫式部が具平親王に出仕していたこと自体が事実かどうか怪しいので、都市伝説のようなものともいえます。
紫式部との恋仲を思わせる公任の言葉
紫式部と公任が恋仲だったと考える場合、根拠とされるのは『紫式部日記』のとあるエピソードです。
宮中で宴が開かれ、紫式部や同僚の女性も出席していました。
すると酔った公任が「若紫(わかむらさき)はおいでですか?」と紫式部に声をかけます。
若紫とは、源氏物語のヒロイン・紫の上(むらさきのうえ)のことです。
公任は物語の中の人物と作者の紫式部をかけたようですが、それは酔っぱらったうえでの軽い冗談…というのが定説となっています。
しかしいっぽうで、公任は「若紫」ではなく「我が紫(わがむらさき)」=「私の紫式部」と呼びかけたとする解釈もあるのです。
我が紫、と捉えるのであれば、少なくとも公任から紫式部への好意を感じることができるでしょう。
また「私の紫式部」を事実だとすると、ふたりは恋仲だったとも考えられますね。
声をかけられた紫式部は、「(宴の場には)光源氏似の人もいないのに、紫の上がいるわけないじゃない」と思って公任を無視した、と日記に残しています。
もし公任がただの知り合いだったとしたら、無視なんて態度をとれるでしょうか。
ふたりが親しい仲だからこそできたリアクションなのかもしれません。
紫式部の公任への対応を、酔って冗談をいう知人への不快感の表われととるか。
それとも、恋人へのちょっとした意地悪ととるか…解釈は難しいところです。
紫式部と藤原公任に面識があったことは確かでしょう。
ふたりが若い頃に出会っていた・恋仲だったという話は、まだ仮説の域を出ませんが、いつか真実といわれる日が来るかもしれません。