光源氏のモデルは誰?源平合戦で有名な源氏との関係は
光源氏と紫の上
紫式部が執筆した『源氏物語』の主人公・光源氏。
光源氏は架空のキャラクターですが、そのモデルは実在の人物だといわれています。
有力な候補は「源融」(みなもとのとおる)と「源高明」(みなもとのたかあきら)です。
彼らの生い立ちや境遇には、光源氏に通ずる部分があります。
そして「源氏」ときけば、源平合戦に代表される源氏・平氏を連想する人も多いでしょう。
光源氏に「源」の姓が与えられたのには、源氏の家系とも共通する理由がありました。
モデルの有力候補・源融
光源氏のモデルとしてとくに有力なのが、源融です。
融は嵯峨天皇の十二男として生まれました。
皇位の継承権が与えられなかったため、天皇に仕えて働く立場に留まっていた人物です。
この点が光源氏と似ており、彼も桐壺帝(天皇)の子ではありますが、融と同じく皇位の継承が認められていませんでした。
また融は、容姿に恵まれた男性だったようです。
美男子と評判になるほど、顔形が整っていたといわれています。
光源氏は絶世の美男子として描かれていますから、ここも大きな共通点といえるでしょう。
さらに融は、京都の六条に「河原の院」(かわらのいん)という邸宅を所有していました。
広大な建物や庭は当時から有名で、河原の左大臣という呼び名もあったそうです。
いっぽう光源氏にも「六条院」という大きな邸宅があり、歴代の妻たちとここで暮らしています。
不遇な立場、美しい容姿、邸宅など、源融と光源氏には多くの共通点がありますね。
このことから、融は光源氏のモデルの有力候補とされています。
京都にある清涼寺や大覚寺では融が祀られており、彼が光源氏のモデルであると紹介されているそうです。
もうひとつのモデル候補・源高明
源融に次いで、光源氏のモデルと名高いのが源高明です。
高明は醍醐天皇の第十子でしたが、光源氏と同じように天皇を継げない立場でした。
またふたりとも、それぞれの母親が「更衣」(こうい)という、天皇に仕える女官の身分だったのも共通点といえます。
高明は天皇にはなれなかったものの、身分は高く、またかなりの切れ者でした。
左大臣という高い役職にまで登り詰め、国の政治を行っていたようです。
非常に優秀な人物でしたが、969年に起きた「安和の変」(あんなのへん)で天皇への謀反を疑われることになります。
嫌疑が晴れず立場を追われた高明は、地方へ左遷されてしまいました。
いっぽうの光源氏も、当初は天皇に仕える臣下として出世しています。
ところが朧月夜(おぼろづくよ)という女性との恋愛関係が原因で、須磨地方に左遷されることになったのです。
朧月夜は、のちに天皇となる光源氏の兄が思いを寄せている女性でもありました。
天皇家の血筋でありながら皇位を継げない立場、母親の身分、そして左遷を言い渡されたことなど、光源氏と高明にも共通点が多くありますね。
光源氏と「源氏」の関係
さて光源氏は「源」姓ですが、有名な源氏・平氏の「源氏」と直接的な関係はありません。
源氏といえば源頼朝や足利尊氏らが生まれた家系ですが、物語が書かれていたころ(平安時代中期)では頼朝らがまだ誕生すらしていないからです。
しかし「源」姓の成り立ちを考えると、光源氏と源氏がまったくの無関係とも言い切れません。
本来、源という姓は、天皇家の人間を皇族より低い身分に落とす「臣籍降下」(しんせきこうか)の際に与えられていたものです。
これは皇族が増えすぎるのを防ぐための措置で、その際に源や平の姓がよく用いられました。
光源氏は天皇家の生まれですが、源の姓を与えられて、皇族の身分ではなくなっています。
同じ臣籍降下のシステムで源姓になったと考えれば、光源氏と源氏には、関係性があるともいえるでしょう。
光源氏のモデルといわれる源融や源高明には、光源氏と共通する出自や人生があります。
もしかしたら紫式部は、ひとりではなく複数人のモデルからヒントを得て、光源氏というキャラクターを作りあげていったのかもしれません。
ちなみに光源氏のモデルといえば、藤原道長の名前が挙げられることも多いですね。
ただ、前述の二者にくらべると、彼のどんな部分がモデルになったのか明確な根拠はありません。
残念ながら(?)源氏物語ファンたちの空想のようです。