聖徳太子の死因は暗殺?!定説を覆すふたつの説
蘇我氏ゆかりの地・宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)
推古天皇を補佐し皇太子として国政を担っていた聖徳太子は、622年に当時流行していた天然痘に倒れます。
看病していた妻の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が先に亡くなり、その翌日に聖徳太子も息を引き取りました。
この定説に対し、愛妻と一日違いで亡くなることが不自然だとして、聖徳太子の暗殺説が浮上しています。
時の権力者として活躍していた聖徳太子。
いったい誰がその命を狙っていたのでしょうか。
蘇我馬子の陰謀説
聖徳太子は、初の女性天皇となった推古天皇に信頼され、当時の実力者で大臣を務めていた蘇我馬子(そがのうまこ)とともに政治改革を推進していきました。
しかし、蘇我馬子は天皇中心となって国政を進めていくことに危機感を覚えていきます。
なぜなら蘇我馬子は、聖徳太子が台頭するまでは政治の中心にいたからです。
前天皇の崇峻天皇(すしゅんてんのう)は、そうした蘇我馬子を邪魔に思うようになりますが、逆に蘇我馬子のほうから仕掛け天皇を暗殺。
それほど蘇我馬子は権力にこだわっていたため、聖徳太子の登場によって蘇我氏一族の力が弱まるのを恐れていました。
また蘇我馬子は仏教を崇拝しており、587年、仏教よりも神道を重んじていた実力者・物部守屋(もののべもりや)を滅ぼしています。
お寺を大事にして神社を無くそうとしていたわけです。
しかし聖徳太子は、仏教を取り入れながら神道も厚く信仰するという、今日の日本の原型を作り上げていた人物。
これも蘇我馬子にとっては受け入れがたいものでした。
このような背景から蘇我馬子は聖徳太子がだんだん邪魔になっていき、聖徳太子を亡き者にしようと決意したと考えられます。
実際、聖徳太子の亡き後に蘇我馬子は再び実権を握り、政治は天皇中心のものから蘇我氏中心のものに切り替わっていきました。
極めつけは643年、蘇我馬子の孫にあたる蘇我入鹿(そがのいるか)が、聖徳太子の息子であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)を一族もろとも攻め滅ぼしたことです。
すでに蘇我馬子は亡くなっていましたが、聖徳太子の一族を大切にしていれば孫がこのような事件を起こすことはなかったでしょう。
刀自古郎女の嫉妬説
聖徳太子には4人の妻がおり、その中でも聖徳太子の一番愛した女性が膳大郎女です。
聖徳太子は膳大郎女に墓に共に入ろうと語ったほど彼女を愛し、8人もの子どもをもうけました。
そのほかの3人の妻のうち膳大郎女よりも先に結婚した女性が、蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)です。
刀自古郎女は、聖徳太子の後継者ともいえる山背大兄王を含む4人の子どもを産み、膳大郎女よりもはるかに身分が高い存在でした。
つまり刀自古郎女からすると、自分よりも身分の低い女に夫を奪われてしまったといえます。
父親は今を時めく権力者。
刀自古郎女はプライドをズタズタに引き裂かれた心境だったに違いありません。
この嫉妬心から刀自古郎女が、ふたりを暗殺したとしてもおかしくないでしょう。
ふたりは天然痘で苦しんでいましたので、女ひとりでも十分に事を成し遂げれたはずです。
愛する後妻を先に殺害し、悲しみにくれる夫をさらに苦しめて手に掛けるという、ドロドロした復讐劇……。
考えただけでこわいですね。
聖徳太子の死因としては天然痘が定説ですが、1500年近く前のことですので、蘇我馬子の陰謀説や刀自古郎女の嫉妬説の可能性も否定できません。
陰謀説については、暗殺は古来から権力者たちが当然のように行ってきたことですので、時代背景にそっているといえます。
いっぽうの嫉妬説も、現代人からすればサスペンスドラマのようで真実味があるでしょう。
どちらも定説を覆すことができそうですが、聖徳太子の死後、蘇我氏中心に政治方針が切り替わったことを考えると、陰謀説がより有力かもしれません。
いずれにせよ聖徳太子の死には蘇我氏がなんらかの形で関わっているようです。