蛮社の獄で高野長英が重い弾圧処分を受けた理由

戊戌夢物語

天保10年(1839年)5月、蘭学者で町医者の高野長英は蛮社の獄で弾圧されました。
『戊戌夢物語』を著して、モリソン号事件(アメリカの民間船が日本の漂流民を返還に訪れ、砲撃によって追い払われた)について幕府に意見したためです。

この一件での長英の処分は永牢(事実上の無期懲役)という重いものでした。
同じく弾圧された長英の師匠・渡辺崋山の処分は国許預かり(自藩での謹慎処分)です。
ここからも長英の処分がいかに厳しかったか、わかりますね。

長英がここまで重罪になった理由を紹介します。

国外だけでなく国内にも幕府が神経過敏になっていた

幕末では異国船が次々に出現して騒ぎを起こすようになっていました。
鎖国で200年以上も続いた平和が乱されるようになっていたのです。

異国船はおとなしく交易や補給を求めるだけではありません。
なかには略奪や住民の襲撃事件を起こす船もありました。
とくに貿易を断られたロシアのレザノフ一行は、恫喝の意味合いをこめて樺太で実力行使をします。
現地施設を破壊し住民を襲い略奪をも行ったのです。

幕府は対外関係に神経をとがらせるようになり、外国船打ち払いという強硬手段をとりました。
しかし今度はイギリス船が、当時無人島になっていた小笠原諸島に補給基地を作ります。
人々を入植させて領有宣言を行ったのです。
幕府はまたも強く警戒し、島への渡航計画を立てます。

いっぽうで渡辺崋山ら蘭学者や民間人が無断で島に渡航を計画している噂もありました。
さらには無人島から海外に渡航しようとも考えているといった大げさな話になり、この噂を聞きつけた幕府は内偵を始めたのです。
国外にも国内にも神経過敏になっている時期といえますね。

『戊戌夢物語』が海外の脅威を煽る書と受けとめられた

そんななか、長英の『戊戌夢物語』が著されて世間の評判になりました。
競って筆写されて大勢に読まれ、老中の水野忠邦までもが目を通したとされます。

当初モリソン号はイギリス船と誤解されていました。
このため『戊戌夢物語』でも、長英はまずイギリス事情に筆を割いています。
イギリスの国民性や海外の勢力に言及し、過激な手段は報復を招くと警告したのです。

その際、長英は船名の「モリソン」をあえて人間であるかのように扱いました。
強大な力を持つ海軍提督のような人物と誤解させ、異国の脅威を誇張します。
幕府を畏怖させ暴力的な行為をやめさせる意図があったからです。

しかしこの行為が裏目に出てしまいました。
実は幕府にもお抱えの蘭学者がいるので海外事情はわかります。
モリソンを人間のように情報操作した長英の意図はバレないわけがありません。

「モリソン」をロシアのレザノフ一行になぞらえたのも幕府を刺激しました。
彼らは実際に北方領を襲撃した危険な人々です。
それを例に引いてあんな風にまた攻撃されるぞ、と脅すのは幕府にとって受け入れがたい言動といえます。

蛮社の獄での長英の対応がまずかった

幕府は自らの権威を保つため、『戊辰夢物語』関係者の摘発を開始します。
水野忠邦などが直々に配下の鳥居耀蔵に命令し、長英の師の渡辺崋山や民間人が連行さました。
いわゆる「蛮社の獄」です。

著者本人の長英は一時、身を隠していたため、最初は捕まりませんでした。
しかし最後には出頭し、この対応が幕府の心証を悪くすることになります。
また取り調べでの長英の態度も好ましくなかったようです。

役人から書いた本の内容について長英は問われました。
海外に行ったこともないくせに、どうしてイギリス事情などが分かるのだと。
定かでもない怪しげな話で世を惑わしてるというお叱りです。

これに対して長英は悪びれずに答えました。
「天にのぼったり地にもぐった人はいませんが、天文学や地理の本はあります。
ましてやイギリスは行き来ができる同じ人間の国。
しっかり見通す目があるなら分からないことはありません。
分からない者は目が節穴なだけです」
この返答が役人を激怒させました。

どうにも長英は普段から鼻っ柱が強いところがあったようです。
頭が良く外国語もよくできたのですが、それを鼻にかけて仲間と衝突することもあったとか。
また蘭学はどうしても外国の比較となります。
自然に日本の政治に話が及び、批判めいた言葉が出ることもありました。
危ない言動をしないように弟子にたしなめられることもあったそうです。

そうした普段の態度が取り調べでも出てしまったのかもしれません。
また長英は故郷の家を継がず脱藩状態だったため、町人扱いとして処罰を受けました。
武士としての甘めの扱いも無く、重い判決が下ったのです。

長英の『戊辰夢物語』は、タイトルのとおりあくまで「夢」であり架空の話として書かれました。
しかし長英の生きた時代はまさに幕末。
冗談ですまない本物の異国の脅威が現れていたため、幕府の反感を買ってしまったんでしょう。

また弾圧時の長英の振る舞い方も重罰が下された大きな理由です。
さらに町人扱いで刑がきつくなるなどの不運も重なっています。
長英の性格がもう少し常識じみたものであったら、処分は小さかったかもしれませんね。

この記事を書いた人

歴史スター名鑑 編集部

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