「二十一回猛士」とは?その意味からみる吉田松陰の生涯

二十一回猛士とは

二十一回猛士という号が使われだしたのは、松陰が25歳くらいのときからです。

このころ獄中にいた松陰は、ある日こんな夢を見ました。
お札(おふだ)を持った神がいて、松陰にそのお札を差し出します。
そこに描かれていたのは、二十一回猛士という言葉。

夢から覚めた松陰は、この言葉の意味について考えます。
松陰の旧姓は「杉」で、この字を分解すると十と八と三。
足し合わせると「二十一」となります。
また現在の性である「吉田」を分解すると、吉が十と一と口、田が十と口。
数字だけを足し合わせるとまたも「二十一」となり、さらにふたつの口を合わせると「回」になります。
つまり吉田を分解すると、「二十一回」になるわけですね。
松陰は、二十一という数字は自分に与えられた数字なのだと解釈しました。
さらに「猛士」についても、自身の通称である「寅次郎」から来ていることに気がつきます。
寅は虎とも読むことができ、その虎の特性は「猛きこと」。
つまりこの夢は虎のごとく「猛きこと」を二十一回行いなさいという神からの啓示であり、それこそが人生においてなすべきことなんだと悟ります。

このときすでに松陰には、これまで三度の「猛きこと」を行ったという自覚がありました。
残りの十八回の「猛きこと」は出獄してから行おうと心に誓います。

三度の「猛きこと」とは何なのでしょうか。
そして残りの「猛きこと」は達成できたのでしょうか。
次からみていきましょう。

一度目の「猛きこと」

20代前半のころ、松陰は日本各地へ遊学をし見聞を広めます。
ある日も東北への遊学を計画しますが、過所手形の発行が出発の日までに間に合いませんでした。
過所手形とは今でいう身分証明書のようなもので、藩の外に出るためには必要です。
この手形がなければ脱藩となり、厳しく罰せられたり武士としての身分をはく奪されたり、場合によっては死罪となってしまいます。

しかし松陰は、手形の発行を待たずに遊学へ出かけます。
日程をずらして友人との約束を破るわけにはいかないとして、脱藩を選択したんです。
これが一度目の「猛きこと」になります。

この遊学で松陰は水戸や会津、弘前などさまざまな藩を視察し見聞を広めていきますが、やがて過所手形がないことが発覚。
脱藩の罪で長州藩へ強制的に送還されることになります。

二度目の「猛きこと」

長州へ戻った松陰は、武士としての身分をはく奪される処分も受けてしまいます。
しかし藩主の毛利慶親からは才能を大きく評価されていたため、本来ならば自宅謹慎となるところを、なんと10年の遊学期間が与えられたんです。

松陰は再び遊学し、ペリーの浦賀来航を視察しました。
初めて海外の文化に触れ、日本が相手にしているのはこれほどまでの大国なのかという強い危機感を抱きます。
そこで松陰は、このときに見た西洋諸国の状況、そして今後の日本がどう対応すべきかについての意見などをまとめた文書を藩主へ上申しました。

武士以外の者の上申はご法度にあたるんですが、松陰にとっては自分の命よりも、ペリー来航で見たこと、思ったことを報告することが大事だったんでしょうね。
これが松陰にとって二度目の「猛きこと」になります。

三度目の「猛きこと」

初めて異国の文化に触れ、海外留学への強い願望を抱いた松陰。
密航するため長崎に向かいます。
当時の長崎には、クリミア戦争の物資調達のためロシア艦隊が寄港していました。
なんと松陰は、その艦隊に乗り込もうと計画していたんです。
しかし長崎についたころには艦隊が出港してしまっていて、あえなく失敗。

これにめげず松陰は、ペリーが再び来航した際の船に乗ろうと試みます。
船内への潜入には成功したんですが、乗船の交渉に失敗してしまいました。
当時も無許可での渡航は認められていませんでしたからね。
こうした外国船への潜入が三度目の「猛きこと」になります。

残りの十八回の「猛きこと」は?

ここまで三度の「猛きこと」を紹介してきました。
二十一回の「猛きこと」を達成するには、まだ十八回たりません。
はたして達成できたのでしょうか。

海外渡航に失敗し、現在の萩市にある野山獄へ投獄された松陰。
このころから二十一回猛士の夢を見て、その名を使い始めます。
そして残り十八回の「猛きこと」を行うべく、松陰はなんと囚人を相手に講義を始めました。
出獄後も自宅謹慎の処分を受けながら、近隣の住民や親族に講義を行います。
初めは数人だけの講義だったんですが、たちまち評判が広まると受講者が殺到。
本格的に自宅の納屋を校舎に改修したのが、松下村塾の始まりです。
二十一回猛士の名に恥じぬよう、学ぶだけでなく行動に移すことの重要性も強く説き続けました。

ただ講義の内容が過激になることが多く、老中の暗殺を計画することも。
さらには幕府の批判などもたび重なっていたため、松陰は幕府から目をつけられることになります。
尊王攘夷派の活動が一段と過激になったころ、幕府は危険人物たちを次々に処罰していきました。
いわゆる安政の大獄です。
松陰も処罰の対象となり、処刑されることが決定。
二十一回猛士として残りの十八回の「猛きこと」を行うことなく、その生涯を終えることになりました。

夢に出てきた二十一回孟子となるべく、人生を全うしていた松陰。
二十一回の「猛きこと」は行えませんでしたが、常に「自分が正しいと思ったこと」を行動していました。
もし残りの十八回を行えていたとしたら、日本の姿はまた別のものに変わっていたのかもしれません。

この記事を書いた人

歴史スター名鑑 編集部

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