吉田松陰と松下村塾の塾生たちとの「絶縁事件」
久坂玄瑞
松下村塾の塾長としてたくさんの塾生に慕われていた吉田松陰。
深い愛情をもって塾生たちに接し、とくに久坂玄瑞(くさかげんずい)には自分の妹を嫁がせるなど、家族ぐるみでの付き合いをしていました。
しかし松陰は一時期、塾生たちと絶縁するという「事件」を起こしていたようです。
絶縁事件の経緯
松陰が塾生と絶縁することになった原因は、老中暗殺計画での意見の食い違いです。
計画を実行しない塾生に対して、松陰が絶縁を言い放ったんです。
1859年、松陰は江戸幕府の老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画していました。
間部は大老・井伊直弼の右腕として働いていた人物。
当時、井伊は独断で日米修好通商条約を結んでしまったために全国から批判を浴びていました。
そこで水戸藩が井伊の暗殺を計画し始めると、松陰も負けじと間部の暗殺を計画したわけです。
松下村塾に残っていた塾生たちに協力を要請し、江戸や京都に遊学していた塾生には手紙で計画を伝えました。
松陰の地元・長州藩には暗殺用の武器や弾薬の調達を依頼するんですが、もちろん協力してくれるはずがありません。
むしろ藩としては暗殺を計画している人物を見逃すわけにいかず、松陰は野山獄へ収容されることになりました。
そのころ、江戸に遊学していた高杉晋作と久坂玄瑞から手紙の返事が届きます。
なんと暗殺計画を支持しないというのです。
「今は暗殺すべきではない」という返事を読んだ松陰は激怒し、2人に絶縁の旨を書いた手紙を送り返してしまいます。
当時2人は松下村塾の双璧ともいわれていた優秀な塾生で松陰も一目置く存在だったので、かなりショックだったんでしょうね。
しかも初めは協力的だった塾生のなかにも、2人の意見を聞いて考えを改める者が出始めます。
松陰は自分を支持しない塾生に対して手当たりしだいに絶縁を宣告していきました。
このとき別の友人への手紙で「この大事なときに師に背くなんて、もはや私の知る塾生は誰もいない…」と語ったそうです。
塾生が松陰を支持しなかった理由
塾生たちが暗殺計画を支持しなかったのには、ちゃんとした理由があります。
計画が失敗するのは明らかで、松陰の命を心配していたからです。
当時、井伊直弼は全国の武士から命を狙われていたため、彼の周りには厳重な警備がしかれていました。
それは部下の間部詮勝も同様のこと。
江戸にいた高杉や久坂はそのような状況を知ったからこそ、「今は暗殺すべきではない」という意見に至ります。
しかも幕府の重役の暗殺は、失敗しても死罪となるほどの行為。
2人からすれば、この計画はむやみに命を捨てに行くも同然のことだと思えたわけです。
それに計画が失敗すれば、計画を指揮した松陰の身が危うくなります。
野山獄に収容されている状態ですので、塾生たちはいっそう身の危険を心配したことでしょう。
松陰の命を救うためにも、計画を実行させるわけにはいきませんでした。
最終的に仲直りできたものの…
ほぼすべての塾生と絶縁してしまった松陰ですが、その後はしっかりと仲直りをしています。
野山獄に収容されてから自分の考えを変えるようになったんです。
立て続けに塾生たちと絶縁していった結果、誰も松陰についてこなくなりました。
そこで初めて松陰は、自分が間違っていたのではないかと反省するようになります。
それからは野山獄に様子を見に来てくれた塾生たちにとても穏やかに接したそうです。
最終的には高杉や久坂も含めて、一度は絶縁した塾生の全員と元どおりの関係に戻ることができました。
しかし松陰が松下村塾には戻ることはなく、安政の大獄によって江戸へと送られ処刑されてしまいます。
塾生たちと仲直りはできたものの、すべてが以前のように戻ったわけではありませんでした。
暗殺計画に従わない塾生たちに絶縁を言い放つ。
しかし最後には自分の間違いを認めて仲直りをする。
どちらも松陰の人間味が伝わるエピソードですね。
先生と生徒が真っ向から対立するというのも松下村塾の気風ならではといえそうです。