バイロンは足が不自由なのに水泳が得意だった!

ヘーローとレアンドロス

イギリスの詩人「バイロン」は先天的に足が不自由だったにも関わらず、水泳を趣味としていました。
長距離を泳ぐのが得意で、そのことを裏付ける2つのエピソードがあります。

伝説の海峡を泳いで渡る

1810年5月3日、バイロンが23歳のときのことです。
2年に渡るグランドツアー(大陸旅行)の真っ最中でした。
イギリスからスペインを回り、イタリアやギリシャを経由してトルコに入りました。
アジアとヨーロッパを分けているダーダネルス海峡を通過し、ヘレスポントという街に到着。
この土地にはギリシャ神話の伝説があることをバイロンは知っていました。

こんな伝説です。
ヘーローという乙女が女神に仕えて、セストス(現在のトルコのエジェアバット)に暮らしていました。
恋人のレアンドロスは対岸のアビドス(現在のトルコのチャナッカレ)から泳ぎ、毎晩のように彼女のもとへ通っていました。
ある嵐の夜、不運にもレアンドロスは溺死してしまいます。
それを知ったヘーローも海に身を投げて亡くなりました。

バイロンはこの伝説に感銘を受け、セストスからアビドスまでダーダネルス海峡を泳いで渡ろうと決意します。
その距離、約4キロ。
一回目は寒さのため断念しました。
しかし、バイロンは二回目で見事にやりとげます。
1時間以上の時間をかけ、バイロンは一気に泳ぎました。
その泳ぎときたら、まるで足の不自由さを感じさせるものではなかったことでしょう。
こうして、バイロンは喜びと自信を得ました。
その時の気持ちを、このように歌っています。

「快適な五月の日ではあったが、息も絶え絶え四肢をばたつかせ、やったぜ、今日は壮挙を!
さて昔の伝説(つたえ)は語る
レアンダ[レアンドロス]がこの急流を泳いだのは女を口説くため その結末は?
彼は愛のため 僕は名誉のため」

悲しみを泳ぎにぶつけて

1822年7月、バイロンが34歳のときのことです。
バイロンは、友人の「パーシー・ビッシュ・シェリー」(詩人)に私生児「アレグラ」の世話を焼いてもらっていました。
愛人が産んだ子どもだったためかバイロンはアレグラをあまり大切にせず、彼女は4歳でその命を終えます。
このバイロンの対応に、優しいシェリーは心底いらだちを感じていました。
バイロンに別れを告げたシェリーは、怒り心頭のまま自分の船で海へと旅立ちました。
しかし小型の船だったため、航海中の嵐に耐え切れず帰らぬ人となってしまいます。

事故から1週間後、シェリーの遺体はイタリアのトスカニ・ルッカの海港に打ち上げられました。
その様子をみたバイロンは深い悲しみを胸に抱き、やけっぱちになって海へと飛び込みます。
沖合に停泊させていた自分の小型船まで往復5キロほどの距離を一気に泳ぎ切ったんです。
足に不自由がない人でも、なかなかできることではありません。
シェリーを失った悲しみが、このような想像もおよばない偉業をバイロンに成し遂げさせたのでしょう。

泳ぎに自信をもらったバイロン。
悲しみを泳ぎにぶつけたバイロン。
彼にとって水泳は、趣味とか得意といった言葉では片付けられないものだったのかもしれません。
きっと水泳にも、詩と同じくらいの情熱を注いでいたんでしょうね。

この記事を書いた人

歴史スター名鑑 編集部

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