大の女好き!伊藤博文の女遊びのエピソード6選
伊藤梅子
伊藤博文は女好きで知られ、「ほうき」というあだ名がつけられました。
「掃いて捨てるほど女がいる」という意味です。
当時のメディアは伊藤の派手な女性関係をさかんに書きたて、1902年には『恋の伊藤博文』という本も出版されています。
ここでは同書を参考に、伊藤博文の女遊びにまつわるエピソードを6つご紹介しましょう。
1. イギリス留学中、色町に入り浸り帰国させられそうになった
1863年、伊藤博文が尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に身をささげる長州藩士だったころ、藩からの命令で井上馨らとともにイギリスに留学しました。
伊藤に与えられた使命はイギリスの人情風俗や文明の程度を調査することで、ほかの留学生にくらべて資金を多く与えられたといわれています。
伊藤は、その資金をもって現地の色町(風俗街のようなもの)に入り浸ってしまいました。
攘夷運動の志士たちのあいだでは女遊びがさかんでしたが、あまりに度が過ぎたんでしょう。
伊藤の行動は留学生のあいだでも問題になり、彼を帰国させるべきであるという声が上がりました。
しかし井上らが仲介に入ってくれたことにより、事なきを得ています。
2. 最初の妻と別れて芸者・お梅と結婚
1864年、伊藤博文は長州藩と西洋列強が衝突したとの知らせを聞き、急いで帰国しました。
しかし伊藤は開国論を主張していたため、攘夷派から売国奴として命を狙われるようになってしまいます。
その際に伊藤をかくまったと言われているのが、下関の芸者のお梅です。
伊藤には親が決めた妻・すみ(伊藤の友人の武士・入江九一の妹)がいましたが、お梅のもとへ頻繁に通いました。
お梅が伊藤の子を身ごもったことで、伊藤はすみと別れお梅と結婚することになります(お梅は「伊藤梅子」と改名)。
友人の妹それも武家の娘を捨て、芸者を妻にしてしまったわけです。
3. 兵庫県令時代に料理屋の娘・お仲と関係
1868年、伊藤博文は兵庫県令(知事)に就任しました。
そのとき関係を持ったのが、福原遊郭で料理屋兼宿泊業を営む千崎弥五平の娘・お仲です。
伊藤は頻繁に千崎屋に通うようになり、やがてお梅夫人の気づくところとなります。
お梅に怒られ、伊藤はしばらくお仲との関係を絶ちますが、やがてまたお仲のもとに通うようになりました。
伊藤の女遊びに寛大だったお梅ですが、よほど頭にきたんでしょう。
お梅は井上馨に頼みこみ、お仲を兵庫県のとある巡査と結婚させることによって、伊藤とお仲の関係を切らせたといわれています。
4. 舞踏会で華族の令嬢と関係
1887年、伊藤博文が首相だったころ 首相官邸で仮装舞踏会が開かれました。
当時は欧化政策が推進されていて、欧米風の社交施設であった鹿鳴館では外国要人の接待や舞踏会が開かれ、皇族や上流婦人が活躍していた時代です。
そんななか「鹿鳴館の華」と呼ばれていたのが、岩倉具視の三女で、戸田氏共伯爵の夫人の極子(きわこ)でした。
伊藤は仮装舞踏会で、この生粋の華族といってよい極子にも関係を迫っています。
マスコミからは、裏庭で事におよんだとか馬車の中で関係を持ったなどとスキャンダラスに報じられたそうです。
5. 日清戦争で広島大本営滞在時も芸者遊び
1894年、日清戦争では広島城に大本営(日本軍の本拠地)が置かれ、首相であった伊藤博文も戦争指導のため広島に入りました。
伊藤は広島でも芸者遊びに興じます。
また1895年には下関で講和会議が開かれ、そのとき伊藤は下関に入りました。
講和交渉中、清国側の代表・李鴻章が狙撃されるという事件が起こりますが、伊藤はその報告を受けた際も芸者と一緒だったといわれれています。
6. 名古屋の芸者・桃吉と成田山参詣
1896年に首相を辞していた伊藤博文は翌97年、貴族院議員・瀧兵左衛門の名古屋の別荘で過ごしていた際に芸者・桃吉と出会います。
伊藤は桃吉にほれこみ、議会開会中でも頻繁に桃吉と会いました。
1898年には桃吉の願いを聞き入れて、ともに千葉県の成田山参詣に出かけています。
首相を務めるほどの政治家が公然と芸者を連れて出かけることは、前代未聞のことでした。
留学中であろうと戦時中であろうと女遊びに興じ、結婚していながらも多くの芸者や婦人と関係を持った伊藤博文。
あまりの女好きぶりに驚くばかりです。
農民から成りあがっていったハングリーさが女性に対してもハングリーにさせたのかもしれません。