直江兼続の学問好きがわかる3つのエピソード

直江版

直江兼続は頭のいい人物として有名ですね。
主君の上杉景勝からは政治も軍事も任され、豊臣秀吉も家臣に望んだほどです。
そんな知将・兼続はもちろん学問が大好き。
兼続がいかに学問に慣れ親しんできたのかがわかるエピソードを3つご紹介します。

幼いころから学問に親しむ

兼続は幼いころから学問に強い興味をもっていました。
上杉家に仕えたあとは謙信から多くのことを学び、さらに学問に親しんでいきます。

兼続が5歳ごろのとき、役人である父といっしょに景勝の実母・仙桃院を訪ねることになりました。
このとき仙桃院の近くにある書物に手を伸ばそうとして、行儀が悪いと父にしかられます。
目の前の人はそっちのけで、本のほうに興味があったわけですね。
仙桃院はそうした兼続の様子を見て、景勝の側近にしようと決めたんだそうです。

景勝に仕えるようになった兼続は、景勝の育ての親である上杉謙信から学問を授けられることになります。
内容は幅広く、軍略や国の治め方のほか、いつわりのない心を大切にする義の精神も教わりました。
兼続は謙信から熱心に学び、謙信も勤勉な兼続をとてもかわいがったといわれています。
勉強好きの兼続にとって、上杉家に仕えたのは幸せなことだったに違いありません。

漢和連句に精通

兼続はとくに漢和連句(かんわれんく)に精通していました。
句会が開かれれば腕前を披露し、豊臣政権の実力者たちから一目置かれていたそうです。

漢和連句とは、テーマとルールに沿った句を数人で次々つないでいく文芸のこと。
和歌の「5・7調の音」と漢詩の「漢字5文字」のルールで言葉をつないでいきます。
兼続は漢詩が得意でよく研究していて、漢和連句でも漢字のみの句である漢句を多く残しています。
たとえば、

露凉満晩籬

(露凉晩籬に満つ。「涼やかな露が夜の垣根に満ちて」の意。「籬」は垣根のこと)

捲簾好賞商

(簾を捲いて好き商を賞するに。「簾を捲き上げてすばらしい秋を称賛するに」の意。「商」を「あきない」から「あき」と読んでいる)

などがあります。

豊臣政権のころ、兼続は景勝とともにしばしば政治の中心地である京都へ出張していました。
そこでは、実力者や知識人のあいだで漢和連句の句会がしばしば開かれていたようです。
秀吉に仕えていた細川幽斎や、秀吉から外交を任されていた高僧・西笑承兌(さいしょうしょうたい)などが句会に参加しています。
そのような場で兼続は優秀な腕前を発揮し、彼らに一目を置かれていました。
兼続は純粋に漢和連句を楽しんでいただけなのですが、結果的に豊臣政権の実力者たちとの人脈を築いていくことになります。

日本初の銅活字本を出版

兼続は、日本初の銅活字本「直江版」を出版した人物でもあります。
多くの人に喜ばれたのはもちろん、学問の発展にも大きく貢献しました。

直江版は、中国の昭明太子(しょうめいたいし)がまとめた『文選』を銅活字本として出版したもの。
文選には、周時代から南北朝時代までの約千年間に書かれたすばらしい詩文が掲載されています。
当時、中国文学研究には必読とされており、直江版の出版は多くの知識人や文化人に喜ばれました。

また直江版は、日本で初めての銅活字本といわれています。
兼続が秀吉の命令で朝鮮との戦いに出陣したとき、銅活字版の技術を日本に持ち帰ったんだそうです。
自身の漢詩好きもあいまって、この直江版の出版が実現しました。
ちなみに朝鮮での戦いのときに、現地の書物が戦火で焼けることを惜しんで日本に持ち帰ったというエピソードもあります。
兼続はどんなときでも学問を大切にし、その発展に貢献していたんです。

直江兼続は幼いころから学問に興味を持ち、親しんできました。
句会で一目置かれたり銅活字本を出版したりと、一般的な武将のイメージからすると珍しい人物といえます。
知将として有名になったのも当然ですね。

この記事を書いた人

歴史スター名鑑 編集部

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