会津転封の際、なぜ直江兼続は越後から年貢を持ち去ったのか?
蒲生氏郷
上杉家当主の上杉景勝が越後(今の新潟県)から会津(今の福島県)に転封(国替え)になったとき、直江兼続は年貢をすべて持ち去りました。
誠実な性格との評価が多い兼続がなぜこんなことをしたのか、当時の状況から理由を探ってみます。
上杉家が会津に転封された経緯
まず、景勝が会津へ転封されることになった経緯をみてみましょう。
このことが後に、兼続の年貢持ち去りにつながっていきます。
当時、越後の近隣の会津には、蒲生秀行(がもう ひでゆき)という大名がいました。
秀行は会津を治めることになったとき、まだ13歳の子ども。
父の氏郷( うじさと)が病気で急死してしまったので、やむを得ずあとを継ぐことになりました。
家臣たちが秀行を補佐していましたが、重臣の蒲生郷安(さとやす)と蒲生郷可(さとよし)が対立し、蒲生騒動というお家騒動が起きます。
これを聞いて怒ったのが、天下人の豊臣秀吉です。
蒲生家には会津を治める力がないと判断し、宇都宮(今の栃木県)への転封を命じました。
会津92万石から宇都宮12万石への大減封です。
蒲生家のいなくなった会津には景勝が移ることになります。
東北と関東を結ぶ要地である会津の統治には上杉家がふさわしいと、秀吉が判断したからです。
喜ばしいことのように思えますが、兼続にあるピンチが待ち受けていました。
年貢の持ち去りは上杉家のため
そのピンチとは財政危機です。
蒲生家が会津から宇都宮に移る際に、今年度分の年貢をすべて持っていってしまいました。
12万石では蒲生家の家臣たちを養えないため、会津の年貢を持ち去ったというわけです。
このままでは上杉家の家臣たちを養う資金が用意できなくなってしまいます。
そこで兼続は、越後の今年度分の年貢をすべて持って会津に移ることを決めました。
蒲生家と同様に、上杉家の家臣をリストラしないために下した決断です。
戦国時代の慣例からみれば、転封の際には元の領地に今年度分の年貢を残して移るのが一般的。
越前(今の福井県)から越後に転封となった堀秀治は、この兼続の行動に抗議します。
しかし兼続は次のようなことを言ってつっぱねます。
「蒲生家も年貢を持ち去っている。そちらが越前に年貢を置いてきたのはそちらの落ち度で、私には関係がない。」
秀治は、越後での最初の年を年貢なしで過ごすことになりました。
兼続が意地悪な人のように見えるかもしれませんが、彼に秀治や堀家への恨みがあったわけではありません。
ただ上杉家のためを思って、年貢の持ち去りを決断しただけです。
会津転封の際に兼続が年貢を持ち去ったのは、上杉家の存続のためには仕方のないことでした。
慣例を破ることになりましたが、その慣例は暗黙の了解のようなものであり、法律として定められたものではありません。
情勢が変われば敵になるかもしれない相手に気を遣うより、自分たちのために行動したのは当然の判断といえるでしょう。