どんな相手にも義の精神を守りぬく、直江兼続の誠実さ
上杉景勝公・直江兼続公主従の銅像
直江兼続は誠実な性格の人物でした。
兼続が主君の上杉景勝に上杉家の家老を任された一番の理由も、その人柄を見込まれたからです。
家老とは内政も外交も軍事も担当するナンバー2の地位。
景勝がいかに信頼していたかがわかりますね。
それだけではありません。
兼続は景勝だけでなく誰にでも誠実に接したので、上杉家の家臣はもちろん領民にも信頼されていたようです。
今回は、こうした兼続の性格がわかるエピソードの数々をご紹介します。
利よりも義を選んだ兼続
兼続は人柄が良いことに加えて、勉強好きで頭の回転が速い人物でした。
そんな兼続に目をつけて自分の家臣にしようとしたのが、時の天下人、豊臣秀吉です。
秀吉は兼続に金品や領地を与えて気を引こうとします。
しかし兼続はその誘いをきっぱり断り、なにを出されようとも景勝への忠誠を貫きました。
兼続が部下に誠意を示したエピソードもあります。
関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対して敗れた上杉家は、領地を4分の1に削られてしまいました。
普通に考えれば、今までと同じ人数の家臣を養い続けるのは無理でしょう。
しかし兼続は、家臣をひとりもリストラしませんでした。
自分の給料を減らし、家臣たちには公共事業の仕事を与えて彼らの生活を守ったんです。
兼続は領民の裁判にも出向いて判決を出すなど、あらゆる人に真心をつくして向き合いました。
妙心寺の僧・南化玄興(なんかげんこう)は、そんな兼続を「利を捨て義を取る人」だと言っています。
簡単にいえば「利」とは利益のことで、「義」とは誠意のこと。
兼続は自分の得よりも他人への誠意を大切にする人物だと評価されていたんですね。
上杉家で学んだ義の精神
なぜ兼続は、このような性格に育ったんでしょうか。
その理由は、兼続が仕えた上杉家と関係しています。
景勝の先代は上杉謙信です。
謙信は合戦で多くの勝利を重ね、「軍神」と呼ばれていました。
しかし出陣するのは助けを求められたときだけで、自分のためには戦っていません。
仏教を深く信じていた謙信は、だまし合いや奪い合いを嫌い、誠意ある行動を心がけていたからです。
これが後に「義の精神」として、上杉家の家訓になりました。
兼続と景勝は謙信から政治や軍事だけでなく、うそいつわりのない心の大切さを学んだといわれています。
ふたりとも謙信の「義の精神」を受け継いでいるというわけです。
兼続が景勝を一生の主君と決めたのも、同じ義の心を持っていたからでしょう。
義のために大胆な行動を取ることも
このように、兼続はどんな相手にも誠意を持って接する人物でした。
それだけでなく、義を貫くための度胸もあわせ持っていたようです。
秀吉が亡くなると、まだ6歳の子どもだった豊臣秀頼があとを継ぎます。
そこで家康は、秀頼を助けるという名目で、自分の思い通りに政治を動かし始めました。
有力な武将の子を自分の子と結婚させて家康グループに取りこんだり、全国の領地の配分を自分に都合が良いように決めてしまったり…。
豊臣家をさしおいて、武将たちにいろいろと指図するようになったんです。
しかし景勝は家康の命令を無視し続けます。
すると家康は景勝に対して、反逆する気なのかとおどしてきました。
そこで兼続は、豊臣家をないがしろにする家康のほうが悪いと書いた手紙を送ります。
この「直江状」と呼ばれる手紙に家康は激怒し、関ヶ原の戦いがはじまる原因になりました。
強大な勢力を持つ家康にはっきり言い返すなど、並の気構えではできません。
おとなしく家康にしたがっていれば、上杉家が関ヶ原の戦いで負けることもなかったでしょう。
家康を恐れてしぶしぶしたがっている武将はたくさんいました。
しかし兼続は、強い心で自分の信念を通したのです。
主君、家臣や領民など誰に対しても誠実であり続けた兼続。
利益に興味を持たず誠意を大切にした兼続は、秀吉や家康のような権力者を前にしても義の精神を守り抜きました。
もともと欲のない兼続にとっては、もしかすると権力者はたいして恐ろしい相手ではなかったのかもしれませんね。