直江兼続と石田三成は「義の心」で深い友情を築いた
義の心
下克上の戦国時代では、裏切りやだまし討ちが当たり前です。
しかし直江兼続は「義」を大切にしました。
義とは、誠実で私利私欲のない生き方を指します。
兼続が幼少のころから仕えた上杉家は、「第一義」を家訓にしていました。
つまり兼続は、義の心とともに育ったというわけです。
豊臣秀吉の側近である石田三成も、義を重んじる人物です。
兼続と三成がお互いの人柄にひかれたのは当然といえます。
ふたりは無二の親友でした。
どのように友情を築いていったのか、みていきましょう。
兼続と三成の出会い
兼続と三成がはじめて顔を合わせたのは、越後(えちご、今の新潟県)にある落水(おちりみず)城といわれています。
当時の上杉家当主である上杉景勝が秀吉と会見したとき、ふたりも同席しました。
会見が持たれるまでのいきさつは次のようなものです。
このとき、秀吉はまだ天下統一のなかばでした。
関東の北条家や九州の島津家など、敵対する勢力がまだ多くいたんです。
そこで秀吉は上杉家と協力したいと考え、もっとも信頼している三成に交渉役を任せました。
いっぽうの景勝は、秀吉との交渉役を兼続とします。
子どものころから一緒に育った兼続を誰よりも信頼していたからです。
こうして兼続と三成は、手紙をやりとりして会見の準備を整えました。
そのなかで、ふたりは「弱い者が犠牲になる時代を終わらせたい」とお互いに考えていることを知ります。
自分のためではなく、困っている人のために平和な国を作りたい――その願いはまさに義から生まれるもの。
落水城の会見が実現したときにはもう、ふたりの間に友情が芽生えていたんです。
ふたりの共通点
落水城で景勝が秀吉に協力すると決まったあとも、兼続と三成はずっと仲良しでした。
ふたりの友情が長続きした理由は、“義の心”のほかに多くの共通点があったからと考えられます。
まずふたりは、同じ1560年生まれです。
それに加えて生まれた家は、どちらもあまり身分が高くありません。
兼続は、城で使う薪(まき)を用意する役人の家に生まれました。
いっぽう三成が生まれたのは、村の地主の家。
よく似た生い立ちは、お互いの親近感を高めたはずです。
若いうちに才能を認められた点も似ています。
兼続が景勝に仕えはじめたのは5歳のころ。
景勝の母・仙桃院が、「兼続は将来、景勝のよい補佐役になる」と見こんで迎えたのです。
三成も10代で秀吉の側近になりました。
早くから活躍する人はねたまれやすいですから、悩みを話し合うこともあったかもしれませんね。
しかもふたりは、主君の右腕として家臣をまとめる立場でした。
同じような苦労をたくさんしているから、より深くわかり合えたというわけです。
秀吉が天下を取ると上杉家は豊臣家のサポート役になり、兼続と三成は協力して政権を支えました。
関ヶ原の戦いでの共闘説
1600年に起きた関ヶ原の戦いで、兼続と三成はともに戦う約束をしたという説があります。
2年前の1598年に秀吉が亡くなると、徳川家康が次の天下をねらいはじめました。
秀吉に恩を感じている三成は、自分のためではなく豊臣家を守るために家康と戦うことを決意します。
こうして関ヶ原の戦いが起きたとき、兼続は“義の心”をもって三成に味方しました。
ふたりは、三成がいる近江(おうみ、今の滋賀県)と兼続がいる会津(あいづ、今の福島県)から家康を挟み撃ちにする約束をします。
ところが関ヶ原の戦いはたった1日で三成の敗北に終わり、三成は捕らえられて処刑されてしまいました。
挟み撃ちの作戦は架空の話とされています。
しかし、このような説が生まれるほど兼続と三成の友情は厚かったといえるでしょう。
生き残った兼続は、三成との友情をずっと忘れませんでした。
三成の息子が逃げてきたときには、家康に見つからないようにかくまってあげています。
誰もが領地や命を奪い合う世の中で、義を守るのは難しいことです。
ばかげていると笑われたこともあったかもしれません。
それでも兼続と三成は信念を曲げずに生きました。
義を大切にする人が少ない時代だったからこそ、ふたりの友情はいっそう強まったんでしょうね。