対立か協調か。織田信長の天皇・朝廷との関係は?
信長との譲位問題にゆれた正親町天皇
織田信長が京都で室町幕府の実権を握ったとき、正親町(おおぎまち)天皇や朝廷に対してどのような考えであったかは明確にわかっていません。
天皇たちと敵対の関係にあったという説と、逆に天皇らと協調関係を結んでいたという説が存在しています。
織田信長は天皇と敵対していた?
一説によれば、織田信長は勢力拡大にともない、天皇にさまざまな圧力をかけるようになりました。
その結果として両者は少しずつ敵対するようになったといいます。
天皇に譲位を要求
信長は1573年ごろからたびたび天皇に譲位をせまるようになりました。
信長は仲の良い皇太子・誠仁(さねひと)親王を早く天皇に就任させ、朝廷を自分の思いどおりに動かしたいと考えていたようです。
しかし天皇は譲位を拒否。
すると信長は1581年、天皇の前で馬揃え(うまぞろえ)という大規模な軍事パレードを行ないます。
その意図は、天皇に自分の軍隊を見せつけることで譲位を納得させることだったようです。
蘭奢待の切り取りの強要
また信長は、蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りの許可を天皇に強要しました。
蘭奢待は、奈良の東大寺正倉院にある香木(こうぼく、香を放つ木片)で、天皇家の宝物です。
この蘭奢待を切り取る行為は権力者の象徴であり、当時は室町幕府の8代将軍・足利義政が切り取ることを許されました。
信長は天皇に蘭奢待の切り取りを許可してもらうことで、いかに自身がすごい存在であるかを世間にアピールしようとしたようです。
いっぽうの天皇は部下にあてた手紙に「不慮に=不本意」と書いており、信長の頼みを断り切れなかった無念の思いがあったといわれています。
右大臣を突然辞任
1578年、信長は前年に就任したばかりの右大臣(うだいじん)という高い官職を急きょ辞任しました。
一説では、信長が天皇制から離れて新しい体制を作ろうとしていたことが理由のようです。
天皇や公家たちも、そのように考えてあせったのでしょう。
信長に官職につくよう何度も要請し、ついには征夷大将軍、関白、太政大臣のなかから好きなものを選ぶようにという異例の申し出をしました。
ただ、その数日後に本能寺の変が起こり、信長は死亡しています。
天皇をしのぐ神になろうとした
さらに信長には、天皇を超越した神になろうという思想も。
宣教師ルイス・フロイスの書簡には、「信長は自分の誕生日に自分を神とする祭典をひらき、人々に礼拝を強要した」と書かれています。
実際、信長は高札(規則などを記した札)を通じて、自身の誕生日に安土城ちかくに建てた摠見寺(そうけんじ)を参拝するよう家臣や住民に命じていたようです。
またフロイスの書簡には、天皇への仲介を頼んできた宣教師に対して信長が「自分が(天)皇であり、内裏(だいり。朝廷)である」と述べたとも書き残されています。
天皇を下階の部屋に
近年、安土城の一角に御所(天皇の住居)と同じような構造の部屋が用意されていたことがわかりました。
信長は新しい天皇を自分の城に移住させようとしていたようです。
この部屋は天守閣より下の位置にあり、天皇が信長の下に位置することを視覚的に示す仕掛けだったとも考えられています。
織田信長は天皇と協調していた?
このような対立説とは逆に、織田信長は正親町天皇および朝廷と良好な協調関係にあったという見解もあります。
その説によれば、信長には天皇の地位をねらう気はなく、天皇と協力しながら天下をおさめようとしていました。
譲位は天皇の願いでもあった
信長が譲位の話を持ち出したころの正親町天皇はすでに50代なかばで、体調が良くなかったといいます。
こうした事情から信長の譲位の申し出を「嬉しく思う」と信長に伝えたそうです。
ただ信長が将軍・足利義昭との対立や敵対勢力との戦いで時間がなく、譲位の実現には至っていません。
また馬揃えについては、安土で行われた馬揃えの評判を聞いた天皇が「ぜひ見たい」と京都での実施を支援したともいわれています。
馬揃えを見物した天皇がよろこんでいる記録も残されているようです。
蘭奢待の切り取りは強要ではない
信長による蘭奢待の切り取りに際して天皇が書いた手紙に残された「不慮」の文字。
これを「不本意」ではなく「思いがけない」という意味に解釈し、天皇は切り取りを反対していなかったとする説があります。
また信長のほうも切り取ってもらった蘭奢待の一部を天皇に献上していたらしく、天皇をないがしろにしていたわけではなかったようです。
信長の目的は自分が奈良を制圧したことを世間に知らしめるためであり、天皇に対する威圧ではなかったと考えられています。
右大臣を辞めた真意
一説によれば、信長が右大臣を辞任したのは戦いに専念するため、そして息子の信忠(のぶただ)に官職を譲ってもらうためでした。
信長は自分が官位を辞して信忠を織田家の当主にふさわしい官職につけることで、信忠が後継者であることを天下に広くアピールしようとしたというわけです。
神になろうとはしていない?
信長の神格化について書かいたのはフロイスのみで、日本側の資料には記録が存在しません。
また信長が出した高札には信長の誕生日に寺に参拝に行くようにと書いていますが、信長自身を神とは書いていないのです。
宣教師らが「参拝=信長は神になろうとした」と拡大解釈したのではないかと考えられています。
信長が宣教師に「自分が天皇」と答えたエピソードについても、キリスト教に反対していた天皇のために取った行動という見解があるようです。
行幸のため部屋を作った
安土城でみつかった部屋は天皇を移住させようとしたのではなく、天皇の行幸(ぎょうこう。お出まし)を接待するための部屋だったともいわれています。
そのような部屋を作るのは信長と天皇の仲が良い証拠とも考えられるでしょう。
また当時の価値観では、天皇の部屋の位置で天皇を軽んじることには必ずしもつながらなかったといいます。
のちに徳川家康の二条城も似たような構造となっていましたが、問題なく天皇が行幸しました。
織田信長は天皇制を廃止して天皇をしのぐ存在になろうと対立していたのか、それとも天皇と協調関係を維持しようとしたのかは謎のままです。
それはおそらく信長自身が天下統一への道の途中であえなく死亡したことも理由としてあげられると思います。
戦略家でもある信長なら、天下をとってようやく天皇への姿勢をあきらかにしたはずです。