切腹それとも焼死?織田信長が本能寺の変で死亡した原因

本能寺跡地から出土した瓦

1582年の本能寺の変で、織田信長は明智光秀の襲撃を受け死亡したといわれます。
その死因として有名なのは切腹による自害ですが、信長の遺体が見つからなかったこともあって、切腹(自害)説が真実とは断定されていません。
信長の死因として、ほかには焼死、外傷死、爆死、他殺などもあるようです。

切腹による自害

信長の家臣・太田牛一(おおたぎゅういち)が江戸時代に書いた『信長公記』(しんちょうこうき)によれば、信長は炎がせまるなか建物の奥に入り戸を閉めて切腹したといいます。
明智光秀の陣営に勝てないとわかった信長が光秀に自身の首を渡さないよう切腹を選んだ…という可能性は十分に考えられるでしょう。

しかし切腹をしてすぐ死ねるわけではありません。
腹部の大動脈を切れば大量出血を引き起こせますが、その部位は体の奥にあるため傷つけるのが難しいのです。
この点から信長は切腹のあと首を斬(き)ってもらう介錯(かいしゃく)を受けたか、腹を切ったすぐあと自分でのどの頸動脈(けいどうみゃく)をかき切って即死したとも推測されています。

信長の切腹後は、一説によれば家臣の森蘭丸(もりらんまる)らによって信長の遺体が燃えるよう上に畳が積み重ねられました。
ほかにも信長の家来の弥助または原志摩守(はらしまのかみ)が信長の首を本能寺から持っていったという説や、信長と親しかった阿弥陀寺(あみだじ)の住職が信長の遺体を火葬したという説があるようです。

いずれにせよ、切腹説での信長は火に巻き込まれる前に自害したことになっています。

焼死(一酸化炭素中毒による窒息死)

しかし近年では科学や医学の観点から信長の死亡原因が研究されており、焼死説も有力になってきました。
その内容は、一酸化炭素中毒または全身やけどによる死亡です。

一酸化炭素は物が燃える際に発生する有毒性の高いガスで、これを吸うと全身に酸素がうまく回らなくなり、体内の酸素が不足する酸欠状態になります。
さらに酸欠状態では頭痛・めまいなどさまざまな症状が引き起こされ、ひどい場合は脳が意識を失い、窒息して死にいたることも少なくありません。
高濃度の一酸化炭素を吸えば3分ほどで死んでしまうのです。

本能寺の変の際には急激に炎が広まったともいわれており、そこに大量の一酸化炭素が発生していた可能性があります。
信長は切腹するより前に一酸化炭素中毒となって意識を失い、そのまま絶命したのかもしれません。

焼死(炎に包まれ全身やけど)

全身やけどについては、イエズス会の宣教師たちの証言をまとめた『イエズス会日本年報』の内容をもとに考察が行われています。
同書では「信長の死因は不明」としながらも、「生きたまま焼死したと言う人もいる」とも書かれていました。

本能寺の変の際に一酸化炭素が大量に発生していなかった場合、体に火がついてそれが全身を焼き尽くす熱傷(ねっしょう)、つまりやけどで亡くなった可能性があるのです。
一般的には火が体に燃えうつってすぐ死に至ることは少なく、広い範囲で皮膚が焼けたり気道が焼けるなどして絶命します。
一酸化炭素中毒とは違い、意識があるなかで焼かれて苦しみながら死んでいくことになりますね。

東京理科大学が当時の本能寺の建物を想定した火災シミレーションを行ったところ、火をつけてから5分以内で炎が天井に燃えうつり一気に空間を火でいっぱいにしました。
信長が切腹しようと建物の奥に入った時すでに火がせまった状態だったといいますから、その炎が一気に広がって体に燃えうつれば切腹どころではなく焼死となるでしょう。

傷が致命傷に

本能寺の変で明智陣営に攻め込まれた信長は自力で弓や槍を手に戦いました。
その際に負傷し、それが致命傷になった可能性もあるようです。

『信長公記』によると、そのときの戦いで信長は肘(ひじ)に槍の攻撃を受けたといいます。
また『イエズス会日本年報』によれば、信長は背中に矢を受け、さらに銃弾まで撃ち込まれました。

肘の負傷が致命傷になるとは考えにくいですが、背中に受けた矢が近距離から放たれたものだとするなら内臓に大きなダメージを与えたはずです。
そして信長は矢を引き抜いて戦い続けたといわれており、激しい動作がさらなる内臓損傷をまねいて失血死に至ったと考えられます。
そんな信長がさらに銃弾を受けたともなれば、それが致命傷になったとも推測できるでしょう。

火薬に引火し爆死?

にわかに信じられないかもしれませんが、信長が爆死したという説もあります。

本能寺の僧たちは鉄砲伝来の地として有名な種子島(たねがしま。鹿児島県)で早くから法華宗を布教するとともに、種子島から鉄砲や火薬をさまざまな戦国武将たちに仲介していました。
ルイス・フロイスの『日本史』には、本能寺の地下に大量の火薬や火縄銃が保管されていたと記録されています。

そして爆死説によれば、本能寺の変の際に地下の火薬に火がつき爆発を引き起こし、その衝撃で信長の体がバラバラになって死亡したというのです。
ほかには信長と敵対したイエズス会が本能寺の近くの教会(南蛮寺)から爆弾を投下して信長を爆死させたという説も。

ただ、爆発が起きれば大きな音と大量の煙が発生し、光秀陣営にもかなりの被害が出たはずです。
当時の記録にはそのような報告がないため、爆死説は根拠にとぼしいものとなっています。

秀吉による他殺?

そのほか豊臣秀吉の手で織田信長が殺されたとする驚きの説もあるようです。

本能寺には南蛮寺へ通じた秘密の地下通路があり、本能寺の変に際して信長はその通路を通って逃げようとしたといいます。
しかし秀吉によって通路の出口がふさがれており、脱出をあきらめた信長はそこで切腹したいというのです。

地下での死亡が事実なのであれば、遺体が見つからないのも当然でしょう。
とはいえその地下通路が見つかっておらず、他殺説も謎のままです。

織田信長の死因として現時点で可能性が高いのは切腹または焼死と考えられています。
そして遺体が見つからない限りどちらが本当の死因だったのかは、まだ誰もわかりません。
信長からすれば明智光秀に遺体を見られずに済んだことが不幸中の幸いだったでしょうね。

この記事を書いた人

葉月ねねこ

日本史を愛してやまないライター。とくに謎が謎を呼ぶ歴史ミステリーが大好き。歴史の魅力を多くの人と共有したいと願う。