怖い人というイメージの織田信長、実際の性格はどんな感じ?
織田信長は怖い人って本当?
「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」という句のとおり、織田信長には怖い人というイメージがありますね。
しかし実際は、それだけではなかったようです。
織田信長の性格について詳しくみていきましょう。
若いころは常識はずれ
信長は若いころ、常識はずれな問題児とみられていました。
その悪評は、家臣や領民のあいだで「尾張の大うつけ者(かなりの常識はずれの人間)」と呼ばれるほどです。
たとえば浴衣で片肌を出したり、腰に袋やヒョウタンをじゃらじゃらとぶら下げていたりといった格好を信長はしていました。
当時の武士の格好としては常識はずれであり、非常に行儀の悪いものです。
またそんな格好をして栗、柿や瓜(うり)などをかぶりつきながら歩いていたともいわれています。
とてもだらしない若者であったことがわかりますね。
また行動も非常識なものでした。
信長の常識はずれな行動といえば、父親の葬式での態度です。
父・織田信秀が死去し葬儀が行われたとき、信長は遅刻しただけでなく普段着で参列したうえに、お香を位牌(いはい)に投げつけもしました。
現代でも葬式に普段着で参列するのはマナー違反ですし、まして位牌にお香を投げつけるなどありえないですよね。
のちに非常に怖い人へ
しかし父親の後を継いでからは、信長の常識はずれな性格は鳴りを潜めていきました。
代わりに今度は、非常に怖い人間という評判が定着していきます。
信長は、自分に従わない人間に対して厳しい態度で臨んでいました。
たとえば比叡山延暦寺の焼き討ち。
当時、延暦寺は僧兵という武装した兵隊を抱えていて、信長に敵対していました。
これに対し信長は僧兵だけではなく、一般の僧侶、女性や子供もろとも攻撃したんです(延暦寺側の死者は数千人ともいわれています)。
また信長に反乱を起こした荒木村重(あらきむらしげ)に対しては、荒木の妻子を含めた122人の女性や子供を処刑しました。
そのほか反発してきた弟・織田信行(おだのぶゆき)についても信長みずからの手で殺害しています。
成果を挙げられない部下に対する対応もかなり冷酷です。
信長は、自身に長く仕えていた佐久間信盛(さくまのぶもり)や林秀貞(はやしひでさだ)を、給料の割に大きな働きをしないとの理由で織田家から追放しました。
ふたりとも高齢だったのですが、信長には情けはいっさいもありません。
林秀貞は追放後2か月で死去し、佐久間信盛は1年半後にこの世を去っています。
信長に追放されたことで職を失い、苦しい生活を送らざるをえなくなったのが原因でしょう。
やさしい一面も
イメージどおり怖い信長ですが、彼はやさしい一面も持ち合わせています。
羽柴(豊臣)秀吉の妻・寧々とのエピソードが有名です。
あるとき秀吉の浮気を知った寧々が、それについての愚痴を書いた手紙を信長あてに送りました。
そこで信長は寧々をほめ、秀吉の浮気を非難する内容の返答をしたといわれています。
また信長は民衆の祭りを企画して自身も参加し、宴の席を盛り上げるため女装をして踊ったりもしています。
冷酷な性格の持ち主だったら、このようなことはまずしないはずです。
民衆へのやさしさを感じますし、青年時代のやんちゃぶりをふまえてみると、おふざけの好きな人間だったとも想像できます。
織田信長は若いころは非常識な人間で、のちに非常に怖く冷酷な性格の人になったようです。
ただ怖いイメージのある信長でも、女性や民衆に対してやさしいという一面がありました。
もしかすると怖いのは仕事のときだけで、プライベートではやさしくて茶目っ気のある人だったのかもしれません。