対立を続けた吉田茂と鳩山一郎。関係が悪化した原因とは?
吉田茂(左)と鳩山一郎(右)
吉田茂と鳩山一郎は、総理大臣の座を巡って対立しており、関係は険悪なものでした。
しかし元をたどれば、吉田が政治家になったのは鳩山から総理大臣への就任を依頼されたことがきっかけです。
本来対立していなかったはずのふたりが、なぜ険悪な関係に陥ったのか。
その経緯を解説します。
吉田への総理就任依頼
第二次世界大戦敗戦後、日本はGHQの管理下に置かれていました。
その状況のなかで、総理大臣候補となったのが鳩山一郎です。
鳩山が総裁を務める「日本自由党」は、戦後初の総選挙で第一党を獲得しています。
通常であれば、そのまま鳩山が総理大臣に任命されるはずでした。
しかしGHQは鳩山に対して「公職追放」を通達します。
公職追放になった人物は、政治家としての活動をすることが出来ませんでした。
鳩山は、党の総裁と総理大臣の座を任せる代理人を急きょ探し回ることになります。
その依頼を受けたのが吉田茂です。
一度は依頼を断った吉田でしたが、鳩山に頼み込まれたため承諾しました。
吉田は当時さほど政治に興味がなかったようで、「公職追放が解けたらポストを返すよ」と鳩山に言っていたそうです。
この時点では、鳩山は吉田に重要なポジションを任せています。
そして吉田も快諾とはいえないまでも鳩山の頼みを聞いており、まだふたりの関係が良好だったことがわかります。
吉田の総理続行で生じるヒビ
吉田が総理大臣を引き受けてから5年が経ったころ、日本と戦争で敵対した各国のあいだで「サンフランシスコ講和条約」が締結されます。
これにより日本は主権を取り戻し、GHQによる統治も終了しました。
もちろんGHQが通達した公職追放も無効となります。
措置が取り消され、鳩山を含めた多くの政治家たちが政界へと戻ってきたのです。
しかし復帰した鳩山に、吉田がポストを返すことはありませんでした。
理由は、5年のあいだに吉田が政治に傾倒したためとされています。
(追放解除直前に脳出血で一度倒れている鳩山の心身では重要なポストは務まらない…と吉田が考えたという説もあります。)
吉田が政権を返上しないことに鳩山や彼を推す政治家たちは不満を抱きました。
吉田と鳩山の関係にヒビが入ったのはこの頃です。
人事で対立が激化
鳩山復帰後も総理を続ける吉田に、鳩山派の自由党員たちは強く反発し続けました。
ついに彼らの不満は、吉田の人事への口出しという形で表面化します。
自由党の官房長選出にあたり、吉田が推していた福永健司を辞退させて鳩山派の林譲治を就任させたのです。
鳩山派の力の強まりを感じた吉田は、彼らへ事前通達せずに衆議院を解散します。
いわゆる「抜き打ち解散」です。
急な解散だったため、鳩山派の政治家たちは準備が不十分なまま選挙に臨むことになりました。
また吉田はこの選挙中、反吉田演説を繰り返しているとして鳩山派の大物である河野一郎と石橋湛山を自由党から除名しています。
鳩山はふたりを復党させるようにと吉田に抗議の手紙を送りますが、徒労に終わったようです。
吉田と鳩山・鳩山派は、こうしてさらに溝を深めていきました。
鳩山が引退するや吉田は自民党へ
抜き打ち解散後、吉田はギリギリ過半数の自由党議席を守り総理の座を維持します。
しかし内閣の支持率は下がるばかりで、最終的には内閣総辞職となりました。
いっぽう鳩山は、吉田の在任中に「日本民主党」を立ち上げます。
日本民主党の総裁となった鳩山は、吉田が退陣したあと総理大臣に就任しました。
日本民主党は、のちに自由党と合併し「自由民主党」と改称。
退陣後の吉田は無所属でしたが、自民党の結党には関わらず参加することも拒否したようです。
しかし自由民主党総裁を務めていた鳩山が辞職し政界を引退すると、その翌年にあっさり自民党に入党しています。
当初に入党を断ったのは、鳩山への反発心だったのでしょう。
対立が解消されず、険悪な関係が続いていたことがうかがえますね。
はじめは良好だった関係は、鳩山の政界復帰後も吉田が総理の座に居続けたことで悪化しました。
吉田がすぐにポストを明け渡していたら険悪にならなかったかもしれませんし、日本の政治の歴史も違ったものになっていたでしょう。