良い評価?それとも悪い評価?井伊直弼が残したふたつの功績
彦根藩主・井伊家の家紋
彦根藩主と江戸幕府の大老を務めた井伊直弼は「藩の改革」「日米修好通商条約の締結」といった功績を残しています。
大きな功績には評価がつきものですが、直弼の場合、悪い評価と良い評価、両方があるようです。
彼のふたつの功績とその評価を掘り下げながら、悪評と好評をそれぞれ確認してみましょう。
藩の改革を行い庶民から敬愛された
直弼の前に藩主を務めていたのは、彼の兄である井伊直亮でした。
直亮は藩主として優秀とはいえなかったため、仕事に不真面目な家臣を多く抱えていたようです。
直亮が亡くなり藩主を継いだ直弼は、まず怠けている家臣たちにクビや降格といった処分を与えました。
反対に、学業や武芸に励んだ人には褒美を与え、才能のある人材には積極的に仕事を回すなどの通達を行っています。
彦根藩士たちが文武を学ぶ「弘道館」での教育にも熱心に取り組み、優秀な人材の確保や育成にも力を入れていたようです。
また直弼は、生涯のなかで9回も藩内全土の視察に出ています。
それまでほかの藩主たちは土地の確認程度しか行いませんでしたが、直弼は人々の暮らしぶりも見て回ったそうです。
病気や貧困に苦しんでいる人には支援を行い、藩のルールに従って真面目に暮らす住民たちには褒美を惜しみませんでした。
こういった姿勢は藩の庶民に支持され、直弼は敬愛される存在だったといいます。
現代においても、藩の改革を成功させた名君として評価されることが多いようですね。
滋賀県・彦根市ではとくに評価が高く、市民から長く親しまれている存在です。
日米修好通商条約の締結では評価が分かれる
直弼は彦根藩主を務めながら、幕府の大老職にも就いていました。
彼が大老になったのは、幕府がアメリカから日米修好通商条約の締結を迫られていたころです。
それ以前に黒船来航を機に開国した日本でしたが、攘夷思想が広く叫ばれており、日米和親条約に続いてアメリカとさらに条約を結ぶのには否定的な意見が多くありました。
当時の天皇である孝明天皇も外国嫌いであり、アメリカと条約を結ぶのには難色を示していたといわれています。
しかし直弼は天皇の許可を待たず、条約への調印を決めたのです。
実際に日米修好通商条約が結ばれると、直弼は攘夷派から猛バッシングを受けました。
彼は条約締結を非難する攘夷派を「安政の大獄」で大勢処罰しましたが、反発はさらに強まり「桜田門外の変」で暗殺されることになります。
こうした日米修好通商条約の締結については評価がばっさりと分かれていますが、一般的によく知られているのは悪評の方でしょう。
横暴な政治や弾圧を行った末に、暗殺されたという悪人のイメージです。
いっぽうで直弼は「開国を進めた英雄」と評されることもあります。
当時の日本は、アメリカなどの外国に対抗できるだけの武力をもっていませんでした。
もし外国との関係が悪化して戦争になれば、日本に勝ち目はなく、植民地にされていた可能性が高いのです。
直弼は開国を進めることで外国との関係を良好に保ち、日本を守った、というわけですね。
長らく悪評が語られてきた直弼ですが、最近では上記のような高評価も広まりつつあるようですよ。
藩を立て直したり、日米修好通商条約を締結して開国を進めたりと、井伊直弼の功績はどちらも非常に大きなものでした。
評価が異なることはよくあると思いますが、両極端に「悪評」「好評」と分かれるのは珍しい気もします。
開国ムードのなかの条約締結はそれだけ難しく複雑な問題だったんでしょう。