本当は渋々だった…井伊直弼が日米修好通商条約を結んだ裏事情

孝明天皇

江戸時代の末期、日本とアメリカは日米修好通商条約(通称:ハリス条約)を締結しました。
この条約の調印を許可したのが、井伊直弼です。

当時の天皇である孝明天皇は、条約の締結や開国に反対していました。
対して直弼は開国を推奨しており条約締結にも前向きでしたが、調印には勅許(=天皇の許可)を得るべきとも実は主張していたんです。

つまり直弼は天皇を重視していながらも天皇の意見を無視したことになりますね。
この矛盾した行動の裏には、当時のヨーロッパの動きと、直弼が直接の交渉役や調印を行っていなかった点から読み解くことができます。

日米修好通商条約の内容とは?

日米修好通商条約は、日本とアメリカが結んだ貿易に関する条約です。
条約の内容としては、アメリカと友好関係を結ぶ、5つの港を開くことなどに加えて、関税自主権の放棄や治外法権の認可といったものもありました。

関税とは、外国から輸入した品物にかける税金のことです。
関税をかけなければ外国産の安い商品ばかりが出回り、国産の品物が売れなくなってしまいます。
関税自主権を放棄すると、どの品物にどれくらい関税をかけるのかの決定権を失ってしまい、自国の産業を守れなくなってしまうのです。

また治外法権とは、外国人が犯罪を行ったときに「母国」の法律で裁ける権利です。
つまりアメリカ人が日本で悪さをしても、日本の法律に当てはめて処罰できないことになります。
実際、条約締結後は罪に対して軽い判決が出るケースも多かったようです。

こういった日本にとって不利な取り決めがあったため、日米修好通商条約は不平等条約ともよばれています。

孝明天皇が勅許を出さなかった理由

日米修好通商条約の交渉役は、総領事(=外交官)として日本に赴任していたタウンゼント・ハリスでした。
彼は条約締結に向けて幕府と何度も話し合いをしてきています。

幕府は条約を受け入れる気でしたが、孝明天皇は調印に反対していました。
理由は、天皇が攘夷(じょうい)派だったためです。

攘夷とは外国人を日本から追い払い、侵略させまいとする思想のこと。
簡単にいえば孝明天皇は外国人嫌いだったわけです。
「海外への防備を厳重にするように」と幕府に要請したこともあります。

江戸時代の日本には攘夷思想をもった人が多く、開国には否定的な空気でした。
幕府は天皇から調印の許しをもらい「開国は天皇の意思」と国民を納得させたかったようですが、孝明天皇は首を縦に振ってくれません。

井伊直弼が大老に就任したのは、天皇の許可が得られないまま条約締結を迫られていた、まさにこの時期のことです。

調印を急がせたヨーロッパの脅威

直弼が大老となった江戸時代末期、アジアの国のほとんどは欧米の植民地でした。
日米で条約の交渉が行われているころにも、イギリス・フランス連合軍が清(中国)を侵略するための戦争を行っています。
敗戦した清は、植民地化が大幅に進行しました。

ハリスはこの戦争を条約締結の交渉材料として利用しています。

清が侵略されたのだから、隣国の日本にもイギリスやフランスが攻めてくる可能性もある。
その前にアメリカと友好関係を作ったほうが賢明である。
日米修好通商条約を結んでおけば、イギリス・フランスからはそれ以上に過酷な条約は要求されないはず。
アメリカとの条約がなければ、武力を盾に無茶な貿易を強要される可能性がある。
要求を拒否すれば戦争になるかもしれない…。

といった形です。

直弼はヨーロッパと日本の武力の差を理解していました。
争っても勝ち目がないのなら、戦争を回避しようとするのが普通ですよね。

彼はアメリカと関係を深めることで、日本を守ろうと考えたわけです。
そのためには、日米修好通商条約の締結が必要不可欠でした。

渋々出した調印の許可

直弼は将軍に次ぐ権力をもった大老ですが、ハリスと直接交渉を行ったのは彼ではありません。
ハリスに応対したのは下田奉行の井上清直(いのうえきよなお)と、目付の岩瀬忠震(いわせただなり)の2人です。

下田奉行は幕府の役職の一つであり、ハリスが滞在していた下田(静岡)で、外国船や外国人のへ対応を担当しました。
そして目付は、幕府の人間が不正をしないよう見張る仕事です。
日米修好通商条約の締結に際して、井上は岩瀬の同意を得て、共同で調印する必要があったというわけですね。

彼らは十数回に渡ってハリスと交渉を重ねています。
井上と岩瀬は早く調印したかったようですが、天皇からの勅許が得られていないため直弼がストップをかけていました。

清でのアロー戦争によりヨーロッパの脅威が現実的になると、幕府内に調印を急ぐ空気が生まれます。
なおも直弼は、出来る限り調印を遅らせるよう井上らに指示をしました。
ただ井上に「どうしようもなかったら調印していいのか」と聞かれると、「どうしようもなければ仕方ない。しかし努力はするように」とも答えています。

勅許が出るまで待ちたいのが、直弼の本音だったのでしょう。
反面、悠長にかまえている時間がなかったのも事実です。
彼はやむを得ない場合の最終手段として、調印の許可を渋々出したのです。

ところが井上と岩瀬は、これを単に「条約締結の許可が出た」と判断してしまいます。
天皇の許可を待とうとしていたのは直弼のほかに少数しかおらず、幕府全体としては早く条約を結んでしまいたかったのでしょう。

アメリカとの条約締結は、攘夷派から大きなバッシングを受けました。
孝明天皇の許可が事前に得られていれば、批判はもっと少なかったかもしれません。

勅許のない条約調印は、おそらく直弼の本意ではありません。
しかし将軍を除けば実質幕府のトップだった彼に避難は集中することになります。
井伊直弼が天皇の反対を無視して条約を締結した…というイメージは、このような背景から生まれたようです。

井伊直弼は、調印されるギリギリまで、天皇の許可を得ようとしていました。
条約締結を断行したというイメージがあるので、意外な事実ですね。

最終的には彼が調印の許可を出したわけですが、ヨーロッパの脅威の中で仕方のないことだったともいえるでしょう。
条約締結後のバッシングは気の毒にも思えます。

この記事を書いた人

くろ

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はじめまして、くろです。下手の横好きで歴史情報をちょろちょろ集めております。収集癖がみなさんのお役に立てば幸いです。