悪人?それともいい人?井伊直弼の本当の性格
埋木舎
井伊直弼は、幕府で将軍に次ぐ権力をもった大老職についていました。
在任中には天皇の許可を得ずアメリカと条約を結んだり、それに反発した人間を弾圧するなどの政治を行っています。
多くの恨みをかった彼は浪士集団の襲撃をうけ、暗殺によって生涯を閉じました。
上記のような経緯から井伊直弼は、小説や映像作品において悪役として描かれることが多い人物です。
しかし彼の残したエピソードは、「悪人」の一言に収まるものばかりではありません。
生真面目さや人間味がうかがえる話もあり、「実はいい人だった」という見方もあります。
井伊直弼の実際の性格について、象徴的な逸話からひも解いていきましょう。
茶道にみる勉強家の一面
井伊直弼には、熱心な勉強家の一面がありました。
象徴的なエピソードとしては、茶の湯の研究があげられます。
井伊直弼は、彦根藩主・井伊直中の14男として生を受けました。
生まれたときにはすでに兄が家督を継いでいたため、直弼が藩主となる道はなく他家の養子に行くことになります。
しかし養子の話がなかなかまとまらず、直弼は17歳から「埋木舎(うもれぎのや)」という屋敷で暮らすようになりました。
埋木とは、地中に埋もれた木のことです。
花も咲かない(=出世しない)埋木に自分を重ね、直弼が自らつけた名前でした。
世の中の競争から外れて屋敷の中に埋もれ、学問や武芸に励もうという気持ちも込められています。
直弼は埋木舎で、禅・和歌・絵画・槍術・居合・能などさまざまな文武を学びました。
それらのなかでも熱心に取り組んだのが「茶の湯」です。
直弼が学んだのは、石洲流(せきしゅうりゅう)の茶道といわれています。
きらびやかなものではなく、質素なわびを重んじる「わび茶」の流派でした。
祖にまで遡って流派の本質を探求し、わび茶の達人・千利休についてもよく学んだそうです。
やがて直弼は、自身でひとつの流派を立ち上げます。
焼き物作りを修め、オリジナルの茶道具を作成するこだわりもみせました。
家臣や家族に教えを説き、茶を振る舞ったそうです。
一流派を作り上げるまでには、多大な勉強や知識量が必要です。
努力を怠らず茶の湯を学び続けた直弼は、人一倍の勉強家だったといえるでしょう。
藩主となった井伊直弼の人間味
悪役のイメージが強い井伊直弼ですが、多くの人に慕われた、人間味のある人物としての逸話も語られています。
直弼の慈悲は、おもに彦根藩の人々へと向けられていたようです。
埋木舎で32歳を迎えた直弼に、転機が訪れました。
家督を継いだ兄・直亮に実子がいなかったため、直弼が次期藩主を務めることになったのです。
直弼が36歳になると直亮が亡くなり、彼は正式に家督を継ぐことになります。
彦根藩主となった直弼は、家臣や藩の人々に直亮が残した遺産を振り分けました。
彼が手放した金額は、藩の年間収益と同等だったといいます。
数年をかけて、領地内の検分もして回りました。
藩内の暮らし向きを観察し、貧困や病気に悩む人々の救済にも尽力したのです。
直弼の住民への働きかけは、のちに彼の政策で死罪となる思想家・吉田松陰も「憐(あわれ)みをもった名君である」と評しています。
埋木舎での直弼の生活は、決して裕福なものではありませんでした。
その経験が、質素に暮らす住民たちへの気配りに繋がったのかもしれません。
また直弼は彦根藩主となった際、就任報告のため将軍の元(江戸)へ向かう道中、涙を流したそうです。
出世を望めなかった自分に、立派な身分が与えられたことへの感涙でした。
藩の人々に寄り添う姿勢や、感激の涙。
これらのエピソードには、直弼の人間味が色濃く映し出されています。
悪人像につながった決断力
埋木舎で暮らすより前から、直弼は禅の修行に励んでいました。
禅の概念は難しいですが、迷いや雑念を捨てて精神を鍛え、悟りを開くなどの目的があります。
直弼が禅で鍛えた精神は、迷いを断ち切る「決断力」に繋がったと考えられます。
直弼の強い決断力をもった性格は、日本の開国を押し進めました。
しかしいっぽうでは、彼自身を悪役に仕立てる原因にもなったのです。
直弼が彦根藩主になってから数年後、浦賀湾にアメリカの軍艦が現れました。
ペリー提督が率いた、黒船の来航です。
アメリカは武力を盾に、鎖国していた日本を開国させます。
続けて貿易も要求し「日米修好通商条約」の締結を幕府に迫りました。
直弼が大老に就任したのもこの頃です。
当時の天皇・孝明天皇は、条約の締結に激しく反対していました。
しかし直弼はアメリカと争うのが無謀と分かっていたので、勅許(=天皇の許可)を得ないまま、条約締結を決断しました。
さらには、条約締結の反対派を厳しく処罰するため「安政の大獄」を実行します。
こうして直弼は強い決断力で開国を押し進めていきました。
ただ、その決断力は裏を返せば独裁や横暴ともいえます。
直弼に悪人のイメージをもたらしたのは、この決断力のせいともいえるでしょう。
ルールを守り続けた生真面目さ
直弼には、生真面目さが垣間見える逸話が多々みられます。
たとえば江戸城に登城するときです。
江戸城に持っていける刀は「黒塗りの鞘」「装飾はなし」と決められていました。
ルールは形だけで実際には装飾を施す人もいましたが、直弼は律儀に決まりを守っていたそうです。
条約締結を迫られた際も、そもそも直弼は勅許のない調印に乗り気ではありませんでした。
そのため条約締結後に勅許をもらえるよう尽力しています。
何度も孝明天皇を説得し、半年もかけて天皇の了承を手にしたのです。
事後承諾とはいえ、天皇をないがしろにできなかったのは直弼の真面目さゆえでしょう。
生真面目な性格が不利に働いたのは、条約締結や安政の大獄より後のことでした。
直弼は尊皇派や攘夷派の恨みの的となり、彼の身を案じて護衛の人数を増やした方がいいと進言した人も多数いたようです。
対して直弼は「お供の人数は幕府のルールで決まっているから」と、忠告を受け入れませんでした。
大老の自分が、規則を破るわけにはいかないとの考えからです。
護衛を増やさずにいた直弼は「桜田門外の変」で命を落とします。
江戸城へ登城中、攘夷派浪士に襲撃され殺害されました。
もし直弼が融通を利かせて警備を厚くしていれば、暗殺は成功しなかったかもしれません。
規則を破れなかった生真面目さが、仇(あだ)となったわけです。
井伊直弼は悪役として描かれることが多いですが、人間的・生真面目だったなどさまざまな一面をもっていました。
とはいえ、それらの性格をもって「本当はいい人だった」と一概には言い切れないかと思います。
井伊直弼は誰かにとって善人であり、他の誰かにとって悪人だったはすだからです。
ただ「悪人」の一言で表せてしまうほど、悪い人ではなかったようですね。