井伊直弼は居合の達人!でも桜田門外の変では無抵抗…なぜ?
居合刀
井伊直弼といえば政治家としてのイメージが強いですが、「居合」の達人でもありました。
しかし直弼は、桜田門外の変で浪士たちから急襲を受けます。
襲撃者たちを迎撃できず刀も抜かないまま、ほぼ無抵抗で殺害されたのです。
居合の名手だった直弼が凶行に太刀打ちできなかったのはなぜなのか。
剣豪としての井伊直弼の軌跡をたどりながら、その理由をご紹介します。
居合の修行を積んだ青年時代
井伊直弼は、武士の家系に生まれました。
武士に必要な教養として、文字の読み書き、乗馬術、弓道や道徳などを幼いころから学んでいます。
剣術も修めましたが、彼が居合の修行を始めたのは17歳を超えてからのことです。
井伊家は代々にわたり彦根藩主を輩出する名家でしたが、直弼が生まれたのは兄が藩主に就任した後のことでした。
藩主を継げない男子は他家の養子になって家を出るか、藩から少額のお金を貰って生活する「部屋住み」になるしかありません。
直弼は17歳から「埋木舎(うもれぎのや)」という屋敷で、部屋住み生活を送っています。
埋木舎でさまざまな学問や武芸に没頭し、武芸の中でとくに好んだのが居合でした。
居合は正確にいうと、剣術と少々性質が異なるものです。
剣術は刀を抜いてかまえ、相手と切り合います。
対して居合は、刀を鞘に納めた状態から、抜刀と同時に相手を切りつけるものです。
居合の本来の目的は、不意の攻撃に対応すること。
不利な体勢からの迎撃を想定しているため、刀を抜く動作がそのまま攻撃となります。
座った状態から技を放つ「座業(ざわざ)」などが特徴的といえるでしょう。
埋木舎での生活の中、直弼は居合の修行に励んでいたようです。
32歳になると次の彦根藩主として藩から声が掛かり、直弼は埋木舎を離れました。
同時に、直弼の修行の日々も終了しています。
新流派の立ち上げと3つの心構え
直弼は31歳のとき「新心新流(しんしんしんりゅう)」という、居合の新しい流派を立ち上げました。
もともと直弼が学んでいたのは「新心流(しんしんりゅう)」の居合です。
江戸時代の初期に活躍した武術家・関口氏成(せきぐちうじなり)を祖としています。
新心流は彦根藩以外にも、尾張藩や桑名藩など多くの藩が取り入れていました。
直弼は彦根藩の居合師範・河西精八郎(かさいせいはちろう)のもとで修業を重ね、免許皆伝の腕前です。
居合で新流派を興すことを志し、修練に励んだといいます。
実際に一流派を作るまでに至ったのですから、達人の域といえるでしょう。
直弼は、居合の極意や心構えをまとめた本を残しました。
著書には新心新流の3つの心構え「破剣」「神剣」「保剣」に関する記述があります。
破剣は「刀を抜くとき、相手は非道な人間であること」という意味です。
善良な人間には刀を向けるべきでない、ともとれます。
神剣の意味は「実を避けて虚をうつ」。
つまり弱点や隙を見極めて攻撃しなさいということです。
最後の保剣では「刀は抜かずに勝ちを保つ」と説いています。
刀を抜かないことで命を落としても、ゆるぎない信念があれば自分やお家の名前は汚れたりしない。
それこそが本当の勝ちだと考えていたようです。
迎撃を軸にした居合の性質からしても、直弼は刀での争いを好まなかったのかもしれません。
反撃しなかった理由は「傷」か「保剣の精神」か
新流派を興すほど居合を極めた直弼ですが、桜田門外の変で無抵抗に殺害されました。
達人級の腕前をもちながら暗殺を防げなかったのには、2つの理由が考えられます。
桜田門外の変が起こったのは1860年3月、まだ冬の寒さが残るころです。
ほんの数分から、十数分の出来事だったといいます。
直弼は駕籠(かご)に乗り、大名行列を作って江戸城へ向かう途中でした。
警護は20人程度から60人ともいわれており、諸説あります。
襲撃犯の1人は行列の前に出ると、まず警護人を斬りつけました。
それから駕籠に向かってピストルを一発撃ち込むと、発砲音を合図にして、計18人の襲撃犯が一斉に駕籠へ押し寄せたのです。
犯行当日は雪が降っており、警護の武士たちは刀に柄袋(つかぶくろ)をかぶせていました。
柄袋は刀を水分から守るための道具です。
この柄袋のせいでとっさに刀が抜けず、彼らは次々と切り倒されていきました。
激しい襲撃を受けましたが、直弼は鞘から刀を抜かなかったといわれています。
実は最初の発砲で太ももから腰にかけて撃ち抜かれていたため、座ったまま動けず抜刀もままならなかったからです。
襲撃犯たちは直弼の居合を恐れていたため、直接の対峙は避けました。
駕籠の外から何度も刀を突きさして傷を負わせたそうです。
どれほどの剣豪でも、敵が目の前におらず、そして動けないとなれば抵抗はできませんね。
ただ、直弼が無抵抗だったのは前述の「保剣」の心構えからとする説もあります。
警護人のついた大名(=藩主)が、自ら応戦するのは非常に体裁の悪いことです。
場合によっては彦根藩自体の名も落としかねません。
そのため直弼はあえて反撃をしなかったともとれます。
保剣の心構えに従い「刀を抜かない」ことで、真の勝利を得ようとしたのかもしれません。
直弼は絶命寸前でようやく駕籠から引きずり出され、首をはねられました。
居合の腕を発揮できずに命を落としたのか、居合の精神に沿って死を選んだのか。
それは井伊直弼本人だけが知るところです。
井伊直弼は、新流派を切り開くほどの剣豪でした。
達人の域に至るまで修行を続けられたのは、心構えに準じて死を受け入れるほどの強い精神を持っていたからこそだと思います。