やっぱり織田信長は強かった?武芸・腕力・度胸は相当なレベル!

信長個人はどのくらい強い?

織田信長といえば、戦国時代の戦いを勝ち抜き天下統一に近づいた武将として有名ですね。
そうした信長の指揮する軍隊はかなり強かったといわれていますが、信長個人としての強さについては明確な記録が残っていません

とはいえ、武芸にまつわる信長のさまざまなエピソードから武士としての実力をおおまかに推察できます。

あらゆる武芸に熱心

若いころの信長は「うつけ」(大バカ者)と呼ばれていたほど遊び歩いていましたが、武芸の修練には熱心だったようです。

毎日、朝と夕方に馬術をけいこし、3月から9月までは川で泳ぎの鍛錬を行っていたといいます。
また、橋本一巴(はしもといっぱ。尾張の片原一色城(かたはらいっしきじょう)城主)に鉄砲を、市川大介(経歴不詳)に弓を、平田三位(ひらたさんみ。尾張の兵法家)に兵法(剣術をはじめとした武術)を学び、鷹狩りも積極的に行っていたようです。

また信長は仲間たちと竹槍合戦を行うなかで、槍の技術の習得と研究にも取り組んでいたといわれています。
槍を突くのではなく叩くという戦法を考え出した信長は、「槍が短いと役に立たない」と槍の長さを三間(約5.5メートル)か三間半(約6.4メートル)の長い物にそろえさせました。

こうして信長は新しい武器の鉄砲を学んだり、古くからある槍の新しい使い方を発見するなど先進的な姿勢で武芸の強さを身につけていったのでしょう。
信長がで町を練り歩き悪童たちとつるんでいたのも、町をよく知り、さまざまな実地訓練をつむためだったという説があります。

実戦でも槍、剣ともに強かった

信長はこうして身に着けた武芸を実戦において発揮しました。
その強さは少なくとも一般の武士以上のレベルではあったようです。

信長が弟の信勝(のぶかつ。または「信行」とも)と戦った稲生(いのう)の戦いでは、信長みずから槍を手にして戦い、敵方の林美作守(はやしみまさかのかみ)との一騎打ちで美作守の首をとっています。
また桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)では、敵の今川義元の本陣に突入した信長がみずから馬を下り、若武者たちと先を争うように敵を倒していきました。
そして本能寺の変でも。信長は弓や槍を手に奮闘しています。

戦国時代の武器といえば弓や槍でしたが、剣術の実力も信長は持っていたようです。
あるとき工事の指揮をしていた信長が、女性をからかった兵士の首を一刀のもとにはねました。
首を斬り落とすのはかなり難しい技術が必要とされますので、信長の剣術はかなりの水準にあったと推測できるでしょう。

ちなみに信長は武具のなかでも刀が好きだったらしく、刀剣をいくつも収集していたといわれています。
後述する「へし切長谷部」(へしきりはせべ)のほか、今川義元を倒したときに得た「義元左文字」(よしもとさもんじ)、本能寺の変で信長が身に着けていた「実休光忠」(じっきゅうみつただ)や「薬研藤四郎」(やげんとうしろう)などが有名です。

棚ごと頭を圧し切った腕力

信長は槍や剣術の腕だけでなく、腕力そのものも相当なものだったようです。
剣術を通して信長の腕力を示す逸話が残されています。

あるとき信長が自身に失礼な態度をとった茶坊主(ちゃぼうず。茶の湯の担当または雑用係)を刀で斬り殺そうとしたところ、茶坊主が逃げまわり、台所の棚の下へ逃げ込みました。
すると信長は茶坊主を引きずり出したりはせず、なんと上から刀身を押し当てて棚ごと茶坊主を頭から真っ二つに圧し斬ったのです。
のちに茶坊主を斬った刀は、「へし切長谷部」(「へし切り」とは上から刀身を押し当てて斬ること。長谷部は刀工の名前)と呼ばれるようになりました。
刀の切れ味も当然あったでしょうが、棚の上から圧し切った信長の腕力も相当なものだったことがわかります。

ちなみに信長は強い力を持つ者に関心があったのか、相撲大会を何度も開くほど相撲を好んでいたようです。
信長みずからが相撲をとった記録は存在していませんが、大会の上位者に褒美を与えたり、家来にしたりするなど力自慢の者たちを高く評価していました。
自身の腕力に自信があったからこそ、より強い者への関心が深かったのかもしれません。

強さを支えた度胸

信長が武芸の技術や力を実戦で発揮できたのは、信長自身に度胸があったからとも考えられます。

信長は若いころから破天荒でかなり肝がすわっていました。
織田家の本家で主人にあたる清洲織田家の城下町に乗り込み火を放って父の信秀(のぶひで)を驚かせたり、人々が震えあがった大蛇の退治に出かけたりしていたようです。

信長の度胸がわかる有名な話としては、前述の「桶狭間の戦い」があげられるでしょう。
織田家の領土・尾張に侵攻してきた今川軍は、織田軍の何倍もの数の大軍でした。
まともに戦っては勝ち目がないため家臣らが城にこもる作戦を主張するなか、信長みずから先頭に立って奇襲へと飛び出し、勝利をつかみとったのです。

また信長は大将でありながら、しんがり(最後尾のこと)をつとめたことがあります。
美濃(みの。現在の岐阜県)の斉藤道三(さいとうどうさん)が息子の義龍(よしたつ)と争ったとき、信長は義父の道三を助けようと出陣しましたが、道三は殺され信長は敵に囲まれました。すると信長は全軍撤退を命じ、自分の乗る舟のみを「しんがり」として残したのです。

「しんがり」は、追ってくる敵勢を食い止め、その間に味方を逃すという命がけのかなり危険な仕事でした。
当時の常識では大将が絶対に担当しない役割ですが、それを信長みずから行うとはかなりの度胸ですね。

さらに信長は、その斎藤義龍の刺客から京都で暗殺されかけたときも度胸をみせています。
鉄砲でつけ狙う刺客らに対し信長は「すべてバレているぞ」と知らせたうえで、なんと京都の町中で刺客一行と対面し、「未熟者のお前らが自分(信長)を殺すとは、カマキリが馬車に立ち向かうようなものだ。できるものならここでやってみろ」とふっかけたのです。
信長の威圧にうろたえた刺客たちは命を狙うどころではありませんでした。
もちろん信長には家来が付いていたと思われますが、間近で対面すれば何が起こるかわからないなかでの信長の度胸には驚かされますね。

織田信長は、ひとりの武将としても数々の勇姿を見せており、技術、力、度胸をあわせ持っていたようです。
信長は尾張の大名家に生まれたエリートでしたが、たとえ一般の兵士から出発したとしても自身の強さで出世していったのかもしれませんね。
きっと信長は運もさることながら実力でも天下統一へ進んでいったのでしょう。

この記事を書いた人

葉月ねねこ

葉月ねねこ

日本史を愛してやまないライター。とくに謎が謎を呼ぶ歴史ミステリーが大好き。歴史の魅力を多くの人と共有したいと願う。