井伊直弼と井伊直虎。ふたりの関係と共通点
次郎法師になった井伊直虎
同じ姓をもつ井伊直弼と井伊直虎。
直系ではありませんが、直弼と直虎には血縁関係があると考えられています。
なぜ直系でないのかといえば、直虎は生涯未婚であり、実子がいなかったためです。
子供のいない直虎から、直弼までどのように血が繋がっていったのか。
2人の関係性をみながら、共通点も紹介していきます。
直弼と直虎の血のつながり
井伊直弼は、彦根藩の15代藩主です。
代をさかのぼってみると、彦根藩の初代藩主を務めたのは井伊直政という人物でした。
井伊直虎は、直政の養母だったとされています。
直虎の父親・井伊直盛は、現在の静岡県の一部を納める領主でした。
家督を継ぐ子共が必要でしたが、直盛は男の子を授からないまま亡くなっています。
ほかに跡継ぎ候補がいなかったため、直虎は女性ながら、井伊家の当主の座につきました。
彼女は生涯独身であり、実の子はいません。
子供がいないままではお家が途切れるため、直虎は父方のはとこ「井伊直政」を養子に迎え、跡継ぎとして育てました。
この直政が彦根藩の初代当主となり、井伊家は代々藩主を務めながら継続していきます。
直政の場合と同じく藩主の実子以外が家督を継いだパターンも多かったですが、いずれも血縁者から養子を迎えているため血筋は保たれました。
直虎と直政は義理の親子、及びはとこの関係にあり、直弼は直政の子孫にあたります。
これらのことから、直弼と直虎には血縁関係があるといえるでしょう。
偶然に当主となった直虎と直弼
直弼と直虎がそれぞれ生きた時代には、200年以上の差があります。
性別も生まれた時も違う2人に共通しているのは「本来お家の当主になるはずではなかった」という点です。
直虎は1530年代、いわゆる戦国時代に生を受けます。
父親の井伊直盛は井伊家の当主でしたが、跡取りになる男児に恵まれませんでした。
お家を守るため婿をとることになった直虎は、直盛の従兄弟にあたる井伊直親と婚約します。
この時点ではまだ、直虎が当主になる流れはありませんでした。
しかし今川氏に命を狙われた直親が直虎を置いて遠方へと逃亡すると、風向きが変わります。
婚約者を失った直虎は、ほかの縁談を断って出家し「次郎法師」と名前を変えました。
次郎とは、井伊家の当主の通称です。
直親が姿を消したことで、いよいよ直虎自身の家督相続が現実味を帯びてきたと考えたのかもしれません。
逃亡から約10年が経つと、直親は直盛の養子として井伊家に戻り、当主を継ぎました。
直虎とは別の女性と結婚して子・直政に恵まれますが、直政が2歳のときに直親は死亡します。
直親がいなくなると、井伊家を継げるのは直虎と幼い直政だけです。
そして直虎の母や軍師の意思により、直虎の当主就任が決められました。
戦国の世にあって女性が家を継ぐのは非常にまれなことであり、井伊家にとっては例外ともいえることでしょう。
お家を守りながら、直虎は直政を養子に迎えて養育しました。
直虎の死後は、直政が家督を継いでいます。
いっぽう井伊直弼が生まれたのは、江戸時代の末期。
直政が初代当主を務め、それから代々彦根藩主を輩出してきた井伊の家系です。
直弼は彦根藩主・井伊直中の実子ですが、14番目の子どもであり母親が側室だったこともあって、家督の継承順位は下位でした。
また直弼が誕生したのは、直中が直弼の兄・直亮に家督を譲ったあとです。
直弼は生まれながらに藩主への道を閉ざされていたも同然だったといえます。
しかし彼が32歳のとき、唐突に彦根藩主への道が開かれました。
家督を継いだ直亮の後継者がいなかったため、直弼に声が掛かったのです。
ほかの兄弟は全員すでに養子に出ていたため、直弼以外に藩を継げる人はいません。
直亮が亡くなると、直弼は正式に彦根藩主となりました。
早々に出世をあきらめていた彼は、就任にあたって涙を流したといいます。
直系ではありませんが、井伊直弼と井伊直虎には血縁関係がありました。
そしてふたりは、どちらも当初はその見込みがなかったにも関わらず最終的には当主になっています。
直弼と直虎のあいだには、血のつながりだけでない共通点があるといえそうです。