息子はいたのになぜ?井伊直弼が後継者を決めなかったワケ
井伊直憲
井伊直弼は幕府の大老職だけでなく、彦根藩の藩主も務めていました。
藩主は世襲制であるため、直弼の次は彼の息子が就任するのが慣例です。
しかし直弼は、複数の息子を持つ身でありながら跡継ぎを指名しないまま亡くなりました。
後継者を決めなかった理由は、息子たちがみな「側室の子」だったからとされています。
後継者の決定に必要だった「届け出」制度
藩主の座が後継者に譲られるのは、藩主が高齢や病気などで隠居した場合と、亡くなった場合でした。
どちらの場合でも、藩を継ぐのは次期藩主として幕府へ届け出がされていた人物になります。
藩主は事前に後継者を決めて、幕府へ伝えておく必要があったのです。
届け出をしないまま藩主が引退すれば「後継者不在」とみなされました。
そうなると藩主の家系が断絶されてしまい、藩自体も取り潰しになる可能性が高くなります。
後継者がいないのは藩にとって重大な問題であるわけです。
井伊直弼は、桜田門外の変で浪士に襲撃をうけ急死しました。
このとき彼はまだ跡継ぎの届け出をしていなかったため、井伊家や彦根藩は断絶の危機を迎えることになります。
届け出をしなかったワケとは
幼いうちに亡くなってしまった子も含めると、直弼には生涯で15人の子供がいました。
しかし全員が側室とのあいだに誕生した子だったのです。
通常、藩主の後継者には正妻とのあいだに生まれた子供が望まれるものでした。
それが叶わなければ側室の子、その次が親戚から迎えた養子です。
また候補者が複数いる場合は、最年長の男子が選ばれ、次男・三男…と継承順位は下がっていきます。
直弼は藩主になった際に正妻を迎えていますが、彼女とのあいだに子供はいませんでした。
おそらく彼は、妻が男子を生むことを期待していたのでしょう。
正妻との子供を跡継ぎにするため、届けを出さずに待っていたのかもしれません。
しかし前述のとおり、子供ができる前に直弼は暗殺されています。
こうして彦根藩は「後継者不在」の状態になりました。
ちなみに彦根藩は、井伊家の断絶を避けるため直弼の死を一時的に隠しています。
彼の存命を装いながら大慌てで幕府に後継者の届けを提出し、受理された段階でようやく直弼の死を公的に発表したのです。
次期藩主には、側室との子の中でもっとも年長だった井伊直憲が選ばれました。
井伊直弼の息子たちはみな、側室とのあいだに生まれた子供でした。
そのため彼は正室が男児を授かるの待ち続け、届け出を出さずにいたわけです。
どちらも直弼の子供なのに、複雑なものですね。
しかし最終的に藩主に就任したのは側室の子である直憲ですし、直弼が届け出をしなかったことは藩やお家の危機を招くことにもなりました。
直弼としては、より良い条件の後継者を選びたかったのでしょうが、そうした判断は良い方向は転がらなかったようです。