井伊直弼の遺体はどこに?3つの埋葬地候補とその理由

井伊直弼の墓がある豪徳寺

幕府の大老・井伊直弼は、1860年、桜田門外の変で暗殺されました。
江戸城へ向かう途中、水戸藩士らの襲撃を受け、命を落としたのです。

井伊直弼の死後、彼の遺体がどこに埋葬されたのか、詳しいことは分かっていません。
しかし候補地として「豪徳寺」「天寧寺」「天応寺」が挙げられています。

井伊直弼の遺体はどのような経緯をたどり埋葬されたのでしょうか。
3か所の埋葬地候補と、それぞれが候補地たる理由をみてみましょう。

長年の定説だった豪徳寺

豪徳寺は東京の世田谷にある、曹洞宗のお寺です。
井伊直弼にとっては菩提寺にあたります。

菩提寺とは先祖代々の墓があり、位牌をお祀(まつ)りするお寺のことです。
お葬式や法事を行うのも菩提寺になります。

豪徳寺には井伊直弼の墓石が存在しており、このお墓は昭和47年、東京都指定の史跡に選ばれました。
そのため長年にわたり豪徳寺は井伊直弼の埋葬地と認識されていましたが、近年この定説に待ったがかかっています。

井伊直弼の墓は老朽化が進んでおり、修繕のため2009年に墓石の地下が1.5mほど掘り返されました。
するとそこには何もなかったのです。

通常、大名(=大きな藩の当主)の墓には、石室が設置されます。
石室は墓石の下に作られる空間で、遺体の入った棺が納められる場所です。
ところが井伊直弼は彦根藩主であったにも関わらず、彼の墓には石室が存在していませんでした。

2010年には、東京工業大学による調査も行われています。
レーダーを用いた探索が行われ、3mの深さまで何も埋まっていないことが確認されました。

石室がない理由として「木棺で埋葬されたのでは?」との声もあります。
木の棺で土葬されたのなら、月日の経過とともに消滅しますからね。

しかし井伊直弼の墓の隣にある、井伊の正妻・昌子の墓には石室が確認されています。
妻は石室に埋葬され、井伊だけが土葬されるのは不自然でしょう。
そのため近年では、井伊直弼の遺体が豪徳寺以外の場所に埋葬されたかもしれないと考えられ始めています。

井伊家とゆかりの深い天寧寺

天寧寺は滋賀県の彦根市にある、曹洞宗のお寺です。
彦根藩主だった井伊直弼に多くのゆかりがあり、供養塔も立てられています。

天寧寺は元々、初代彦根藩主の井伊直政が、母親の供養のために建立したものでした。
多くの人が参拝する寺院とは違って井伊家が代々、私的に利用した空間なわけです。
井伊直弼も天寧寺を訪れ、歌を詠んだり、庭園を造って手入れをしていたといわれています。

こうした井伊家と繋がりの深い天寧寺ですが、埋葬されたのは井伊直弼の遺体でなく、彼の血の染みた衣服や土と考えられてきました。
というのは、桜田門外の変の後、彦根藩が一時的に井伊直弼の死を隠蔽したからです。

当時、当主が跡継ぎを指名しないまま殺害されればお家は取り潰しと決まっていました。
彦根藩は代々井伊家から藩主を輩出していたので、井伊家の断絶は藩の危機でもあるわけです。

彦根藩にとってみれば、井伊直弼の血に染まった衣服や土は暗殺の事実を立証するものであり、存在してはいけないもの。
そのため証拠品は秘密裏に彦根へと運ばれ、天寧寺へ埋葬されることになりました。

天寧寺は井伊直弼が足を運んだゆかりの地であり、井伊家だけが利用した、人目につきにくい場所にあります。
死者をしのぶ心情と証拠の隠蔽、どちらをとっても最適な場所とえるでしょう。
このことから、遺品とともに彼が埋葬された可能性も小さくありません。

辞世の句と一緒に埋葬された?天応寺

咲きかけし たけき心の ひと房は 散りての後ぞ 世に匂ひける

これは井伊直弼の辞世の句です。
国を想ってきた熱い気持ちは、自分の死後も後世に理解されるだろう…と意訳できます。
急襲され命を落としたため、死の前日に詠んだこの句が辞世の句となりました。

辞世の句と井伊直弼の遺体の髪の毛を納めたとする場所が、天応寺です。
栃木県佐野市にある曹洞宗のお寺で、豪徳寺と同じく井伊直弼の菩提寺にあたります。

建立したのは彦根藩2代目藩主の井伊直孝。
三代に渡り井伊家の墓が祀られており、井伊直弼の墓標には髪の毛と句を書いた短冊が埋葬されたといわれています。

遺品の埋葬に関し、詳しい経緯は伝えられていません。
しかし井伊家の菩提寺であることから、遺品とともに井伊直弼の遺体も埋葬された可能性があります。

井伊直弼の埋葬地として候補にあがっているのは、井伊家のふたつの菩提寺と、慣れ親しんだ寺院です。
どの場所に遺体が埋葬されていても不思議ではありませんね。

長らく豪徳寺が定説でしたが、埋葬が確認できなかった事実が判明し天寧寺や天応寺はにわかに関心を集め始めました。
今後さらに有力な候補が現れることも考えられます。

この記事を書いた人

くろ

はじめまして、くろです。下手の横好きで歴史情報をちょろちょろ集めております。収集癖がみなさんのお役に立てば幸いです。