井伊直弼が暗殺された理由。桜田門外の変が起こるまでのスリーステップ

桜田門外の変

井伊直弼は「桜田門外の変」で暗殺された幕府のNo.2です。
将軍に次ぐ権力をもって政治を行いましたが、水戸藩士や尊王攘夷派から恨みをかって襲撃されることになります。

尊攘派たちが暗殺事件を起こすまでには、3つのステップがありました。
日米修好通商条約、将軍後継問題、安政の大獄です。
なぜ井伊直弼は殺されたのか、原因と結果を追っていきます。

勝手に調印。日米修好通商条約

日米修好通商条約は、日本とアメリカが結んだ貿易や開港に関する条約です。
井伊直弼は天皇の許しを得ずに条約を結んだので、多くの批判を集めました。

アメリカの総領事(=外交官)ハリスは、幕府に条約を受け入れるよう迫っていました。
幕府は調印の許可を孝明天皇に求めたのですが、外国嫌いの天皇は首を横に振るばかり。
そこで井伊直弼は、独断での条約締結に踏みきったのです。

天皇の意思を無視した調印は、尊皇派・攘夷派から大バッシングを受けます。
日米修好通商条約が、日本にとっての不平等条約だったことも批判に拍車をかけました。

前水戸藩主・徳川斉昭にくわえて、息子の一橋慶喜や尾張・越前藩主たちは、直接江戸城に出向いて井伊直弼を非難しています。
斉昭たちが登城までしたのには、背景がありました。
条約締結と並行して起こっていた将軍の後継者問題です。

ゴリ押し?14代将軍の選定

当時の将軍は13代の徳川家定。
家定は病弱で子供が望めなかったので、後継者として養子が必要だったのです。
14代将軍候補には前述の一橋慶喜と、家定の従弟にあたる徳川慶福(家茂)の名前があがりました。

後継者を巡って幕府内で対立が起こるなか、井伊直弼が大老に就任します。
血筋を重くみた井伊直弼は慶福を推し、強引に次期将軍の座へとつかせました。
斉昭らたちの登城は、後継者や条約調印を不服とした直談判だったわけです。

江戸城は本来、常勤者を除いて、決まった日程(=登城日)を外れての登城を許しませんでした。
登城日を待たなかった斉昭らは罪に問われ、政界から追放されます。
慶喜は正式な日取りでの登城でしたが、彼もまた政治への手出しを禁止されてしまいました。

アンチは処分。安政の大獄

慶福が家茂と名を改めて将軍となり、日米修好通商条約が結ばれたころ。
孝明天皇は水戸藩に手紙を送ります。
内容は、幕府の勝手への批判と、攘夷を進めたいというものでした。

天皇が幕府を通さず直接、藩に連絡をしたのは衝撃的なことです。
幕府を信用しないと言いきったも同然ですからね。
また、天皇が政治に関わろうとするなんて当時はありえないことでした。

こうした天皇のふるまいに幕府は大慌て。
しかし井伊直弼は、手紙は水戸藩の策略であり、孝明天皇はそそのかされたと考えます。

水戸藩は厳しく取り調べられ、策略の関係者(らしき)人たちは藩に関わらず処罰を受けることになりました。
尊王攘夷派の活動家や、アンチ幕府勢力も同じです。
思想家の吉田松陰や水戸藩の一部家臣が死罪になったほか、島流しや謹慎など、処分は厳しいものでした。

井伊直弼の命令で処罰された水戸藩士・尊王攘夷派の活動家たちは、100余名に上ります。
安政の大獄は、井伊直弼ら幕府によるアンチたちへの弾圧行動だったのです。

アンチの逆襲。桜田門外の変

強引な政治や弾圧で幕府への不信は募っていきました。
そんななか、特に強い不満をかった井伊直弼が襲撃をうけ暗殺されます。
いわゆる「桜田門外の変」です。

井伊直弼を襲ったのは、水戸藩の脱藩浪士17名と、薩摩藩士1名。
全員が尊王攘夷派でした。
幕府の行いを正して攘夷を進めるのに、井伊直弼は邪魔と考えたのです。

1860年(安政7)年の3月3日。
駕籠(かご)で江戸城に向かっていた井伊直弼を浪士たちが襲撃します。
銃撃と刀で重傷を負わせたあと、駕籠から引きずり出して首を落としました。

犯行はものの数分だったそうです。
当日は雪が降っていたので、駕籠の警備隊は合羽を着て、刀にかぶせ物をしていました。
そのため素早い反撃ができず襲撃が成功したといわれています。

無許可での条約締結、強引に決めた将軍の後継者、多くの人を処罰した安政の大獄。
これら3つの事件は、大きな恨みをかうのも納得な出来事でした。

井伊直弼のやり方は確かに強引であり、不満が出るのも当然といえます。
しかし条約の締結を進め攘夷派を抑えたことで、アメリカとの戦争や植民地化を防いだという見かたもあります。
もしかしたら彼は、暗殺も覚悟で、日本の自由や平和を守ったのかもしれませんね。

この記事を書いた人

くろ

はじめまして、くろです。下手の横好きで歴史情報をちょろちょろ集めております。収集癖がみなさんのお役に立てば幸いです。