井伊直弼の暗殺原因は近江牛の味噌漬け?食べ物の恨みは恐ろしかった!
近江牛
井伊直弼は「桜田門外の変」で水戸藩士らの襲撃をうけ、命を落としました。
事態が暗殺にまで発展した原因は、強引な政治や弾圧を行った直弼に批判が集まったため、というのが定説です。
しかし、都市伝説的に語られているもうひとつの原因があります。
それは「井伊直弼が水戸藩主・徳川斉昭に近江牛の味噌漬けを贈らなかったため事件が起きた」とするものです。
幕府の大老が牛肉を原因として殺されるとは、なんとも突飛な話ですよね。
近江牛の味噌漬けがどう暗殺に結びついたのか、みていきましょう。
江戸時代の牛肉の扱い
江戸時代の日本では、幕府のお達しにより基本的に牛肉は食されていませんでした。
これは動物を殺したり、肉食をタブーとする仏教の教えにそったものです。
とくに労働力となる牛や馬を殺すことは好まれませんでした。
しかしこうしたルールは厳格に守られていたわけでもありません。
表向きは別の商売にカモフラージュしながらも、肉を扱う店は存在していたのです。
禁止令を出していた幕府の人間でさえ、しばしば牛肉を食べたといいます。
牛肉は栄養価が高く滋養強壮に良いことから「薬」の名目で摂取されていました。
食事ではなく薬と言い張ることで、牛肉を食べる体裁を整えたわけですね。
井伊直弼が藩主を務めた彦根藩は、特例的に牛から皮や肉をとることを認められていました。
牛皮は幕府に納めるためのもので、残った牛肉を味噌漬けや干し肉にしていたようです。
これらの牛肉は献上品として、将軍や各地の大名にも贈られました。
近江(彦根)の牛はおいしいと評判だったのです。
味噌漬けを贈らなかったわけ
好評を得ていた近江牛の味噌漬けですが、直弼が彦根藩主になると献上が中止されています。
直弼が熱心に仏教を学んでいたためでした。
仏教では前述のとおり、食肉どころか動物を殺すこともご法度になります。
そのため直弼は、藩内で牛の殺傷を禁止したのです。
そうなれば当然、牛肉がとれなくなるので味噌漬けを作ることもできません。
直弼の命令により、近江牛の味噌漬けを献上するのは不可能になったわけです。
献上を断り続けた井伊直弼
彦根藩が牛肉を献上しなくなると、これに不満をもったのが水戸藩主・徳川斉昭でした。
彼は近江牛の味噌漬けをとても気に入っており、彦根藩から届けられることを楽しみにしていたのです。
斉昭は直弼に「なぜ味噌漬けを贈らないのか」という手紙まで送っています。
牛の殺生を禁じたため、と返事が届いても、斉昭は再三にわたり催促を行ったそうです。
やがて直弼が大老になり江戸城に登城するようになると、斉昭は味噌漬けを贈ってくれるよう直接頼み込みました。
しかし直弼は、懇願をきっぱりと拒否。
要求を断る際の彼は、斉昭を笑うようなひどい態度だったともいわれています。
何度も頼みを断られ、斉昭はさぞ不愉快だったでしょう。
彼の部下である水戸浪士たちも、主君をないがしろにする直弼に怒りをつのらせました。
そしてこの恨みを晴らすため、浪士たちは直弼を襲撃します。
つまり井伊直弼は、牛肉をあげるあげないの喧嘩の末に暗殺された…ということです。
なんとも子供っぽいというか、面白おかしい噂話といった感じですね。
ちなみに当時はまだ「桜田門外の変」とは呼ばれておらず、水戸藩の人々はこの事件を冗談半分に「御牛騒動」と呼んでいたみたいです。
大老が暗殺された大事件の原因が「牛肉」というのは、かなり意外な事実ではないでしょうか。
当時は公然と肉を食べるのは敬遠されていましたから、肉への思い入れが今より強かったのかもしれません。
とはいえ今回ご紹介したのはあくまで、都市伝説の域を出ない話です。
ですから「こんなエピソードもあるんだ」くらいに受けとってもらえればと思います。