伊藤博文の英語力とその伸ばし方にまつわる5つのエピソード

岩倉使節団

伊藤博文は、その英語力が評価されて内閣総理大臣に選ばれました。
今回は、伊藤がどのくらい英語が得意だったのかについてのエピソードとともに、彼がどうやって英語力を伸ばしていったのかについてもご紹介します。

長州藩で外交交渉を担当

伊藤博文が長州藩士であったときのころの話です。
1864年8月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が長州藩を襲撃しました。
その際に伊藤は通訳を任され、たった一人で連合艦隊の旗艦であるユーリアラス号に行き、講話交渉のきっかけを作ったんです。

また伊藤は、親しかった駐日イギリス公使館通訳生のアーネスト・サトウに協力を求め、連携して交渉を進めてもいます。
英語力だけでなく、コミニュケ―ション能力にも優れていたようです。

岩倉使節団で渡米した際に英語でスピーチ

1871年、欧米諸国に岩倉使節団が派遣された際に伊藤博文は副使として参加しています。
一行は最初に到着したアメリカ・サンフランシスコでの歓迎会で、スピーチを求められました。
そこで伊藤は英語でスピーチをしたんです。

イギリス公使館のフランシス・アダムスは、伊藤の英語は流ちょうだったと述べています。
英語力の高さは折り紙つきだったようですね。
またアメリカ人の大観衆が注目するなかスピーチをしたのも特筆すべきところです。
大使の岩倉具視や先輩格の木戸孝允・大久保利通を差し置いて堂々とスピーチをやってのけました度胸の良さには、目を見張るものがあります。

長年にわたりアメリカ人と英語で文通

1895年『ニューヨーク・トリビューン』紙に、伊藤博文が銀行家ヘンリー・クルーズに送った手紙が掲載されました。
伊藤とクルーズは最初に知り合った1871年から長年にわたって文通を続けたそうです。
日露戦争の起きた1904年にも『ニューヨーク・タイムズ』紙などに、伊藤からクルーズ宛の書簡が掲載されています。

伊藤の英作文能力は、アメリカの新聞に掲載されても何ら見劣りしないものでした。
そして中身もしっかりしたもので、日露戦争時の書簡では「日本は自国の利益だけではなく、公正な貿易を実現するために戦っている」と述べています。
当時の日本で、英語を書いて自分の論説を主張できる人物はなかなかいません。

長州藩士時代にイギリスに留学

こうした英語力を伊藤博文が身につけられたきっかけは、長州藩士時代のイギリス留学です。
伊藤は1863年9月から64年3月までロンドンに滞在し、ユニヴァーシティ・カレッジ教授のアレクサンダー・ウィリアムソンの家に下宿しました。

留学先のユニヴァーシティ・カレッジでの授業はもちろんすべて英語。
伊藤は日本の将来のために、英語での授業に必死にくらいついていきました。
その結果、半年間の滞在で日常会話に困らない程度にまで英語力を伸ばせたそうです。

洋書や英字新聞を講読

イギリス留学から帰国してからも、伊藤博文は英語での情報収集や知識の向上を欠かしませんでした。
丸善から新刊の洋書や英字新聞を仕入れ、それらを読むのを習慣にしていたといわれています。
留学で身につけた英語力を常に伸ばし続けたわけです。

また伊藤は部下に、伊東巳代治や金子堅太郎など外国語能力に優れた官僚を集めました。
彼らの助言も受けながら、伊藤は国際舞台で活躍するにふさわしい人材となるべく努力を欠かさなかったようです。

伊藤博文は流ちょうに英語を話せるだけでなく、英文作成も得意でした。
農民出身でありながらここまで英語力を伸ばせたのは、留学中の必死な勉強と帰国後の絶え間ない努力のおかげでしょう。

そして語学力を鍛えるには、コミュニケーション能力や度胸の良さを養うことも大切です。
伊藤はこれらにも優れており、そのことが彼を国際性のある政治家、そして内閣総理大臣へと出世させました。

この記事を書いた人

higeta

higeta

30代男性。日本近現代史をマイペースでコツコツ研究しています。歴史の面白さを伝えたいです。趣味は猫と映画と散歩。