明るく勝ち気…繊細な面も?清少納言はこんな性格だった
「5月ばかり、月もなう」の段の清少納言
『枕草子』に書かれたエピソードや主張から、清少納言は明るく社交的で勝ち気な性格だったと考えられています。
ただ同作品を細かく読んでみると、繊細な一面をもち、やさしい気持ちを大切にした女性でもあったようです。
知的な会話を楽しむ、明るく社交的な性格
『枕草子』では清少納言が和歌や漢詩の知識を生かして、定子(ていし)や貴族たちとセンスの良い会話や歌のやり取りに興じる姿がたびたび登場します。
なかでも有名なのが「中納言参り給ひて」の段です。
定子の弟である中納言隆家(たかいえ)が、「誰も見たことのない立派な骨だ」と扇(おうぎ)の骨を自慢します。
すると清少納言は、「(誰も見たことのない、つまり骨のない)くじらの骨ですね」とジョークで切り返し、隆家や定子を大笑いさせました。
清少納言は、「雨のうちはへ降るころ」の段のようにダジャレも得意としていたようです。
足が濡れているからと敷物を遠慮する貴族に対して、清少納言は「せんぞく用なのに」とダジャレで返しています。
これは毛織りの敷物である氈褥(せんぞく)と、足を洗う意味の洗足(せんぞく)の意味をかけたものでした。
このように知的で明るい清少納言は、はなやかで楽しいことも大好きだったようです。
「5月のご精進のほど」の段では、調子に乗り過ぎた清少納言の様子が描かれています。
清少納言は同僚の女房たちと牛車に乗って出かけた帰りに、卯の花(うのはな。うつぎ)で飾り立てた牛車を見せようと、藤原公信(ふじわらのきみのぶ)の家に立ち寄りました。
ところが清少納言は、あわてて帯を結びながら飛び出してきた公信を見た瞬間なんと牛車のスピードをあげさせたのです。
「待って」と叫んで牛車を追ってくる公信の姿に清少納言は大笑い。
牛車に追いついたものの雨が降り出し途方に暮れる公信に、清少納言は「宮中がすぐそこなので入って定子さまにも挨拶すれば」と何度もすすめます。
清少納言は、(正装でないので)定子に会いに行けない公信をからかったのでした。
陽気でお茶目な清少納言の性格が垣間みえるエピソードですね。
勝ち気で負けず嫌い
『枕草子』で清少納言は、「人に思われるのは1番でないとイヤ。2、3番ではイヤ」と書いています。
男女の仲ならともかく、友人、知人も含めて1番でないと嫌とはかなりの勝ち気ですね。
「頭の弁の、職に参り給ひて」の段では、次のようなエピソードも。
あるとき藤原行成(ふじわらのゆきなり)が清少納言に手紙を送り、以前に会話の途中で帰ってしまった理由を「鶏の音が聞こえたから」と言い訳しました。
さらに行成はこの鶏の音を、鶏の鳴きまねで役人をだまして関所を開けさせた中国の故事ではなく、男女の逢瀬を表す逢坂(おうさか)の関の鶏の声だと言いいます。
すると清少納言は次のような和歌を詠んで、ピシャリとやり返したのです。
夜をこめて鶏の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
(意訳)
「鶏の鳴きまねで函谷関の役人はだませても、私は簡単に開けませんよ(男女の仲にはなりませんよ)」
また勝ち気な清少納言は、当時の女性たちが隠そうとした漢詩の知識も人前で堂々と使いました。
定子に「香炉峰の雪は?」と聞かれ、漢詩をヒントにすだれをあげたのは有名な話ですね。
「5月ばかり、月もなう」という段でも、漢詩の知識で貴族たちを驚かせています。
清少納言は貴族たちから出された「呉竹(くれたけ。中国王朝の呉から伝わったハチクと呼ばれる植物の別名)」を、「栽ゑて「この君」と称す」と詠まれた漢詩にちなんで「この君ですね」と答えました。
さらに「雨のうちはへ降るころ」の段では、清少納言の負けん気に火がついたエピソードが。
藤原信経(ふじわらののぶつね)にシャレを軽くあしらわれた清少納言は、字が下手な信経に「中宮さまの前で歌を詠めば(歌を書いて見せなさい)」とけしかけます。
字に自信のない信経はあわてて逃げ出しました。
毒舌で、何でもハッキリ言うサバサバ系
『枕草子』の内容からは、清少納言が物事をはっきりというサバサバした性格だったこともわかります。
たとえば以下のようにスッパリ言い切っています。
- 「取りどころなきもの」(とりえのないもの)は、見た目がブサイクで性格も悪い人
- 「見ぐるしきもの」(見ぐるしいもの)は、ブサイクどうしの昼寝
- 「ありがたきもの」(めったにいないもの)は、主人の悪口をいわない従者、容貌・性格などすべてに欠点のない人
- 説法をする僧侶は顔が美形なのが良い。顔に見とれてしまわず、話の内容が頭に入る
- 悪口を言うのは楽しいので、言わない人は信じられない
- 男というものは自分中心で人がどう思うか気にしない。男は何人もの女に同じように声をかけ、魅力のある女でもあっさり捨ててしまうのは理解できない。
現代風にいえば「毒舌」といったところでしょうか。
清少納言は作品の中だけでなく人に面と向かってもハッキリものを言うタイプの女性だったようです。
「文ことばなめき人こそ」という段では、さまざまな人に対して言葉づかいの間違いを細かく注意している場面が描かれています。
清少納言があまりにはっきり言いすぎたのか、注意した人から「馬鹿にしすぎ」と文句を言われることも。
また「弘徽殿(こうきでん)とは」という段には、清少納言のハッキリ言う性格が原因で源宣方(みなもとののぶかた)と絶交するエピソードがあります。
身分の低い女のもとへ通っているという宣方のうわさについて清少納言が嫌味を言ったため、宣方が腹を立て絶交に至ったのです。
そのほか清少納言は、「急ぎの着物を早く縫い上げたものの玉止めを忘れたせいで針と縫いつけた糸がスポッと抜けてしゃくにさわる」と自分の失敗談も書いています。
何でもハッキリと言い自分の失敗もオープンにする清少納言は、自分に正直でサバサバした性格だったのでしょう。
繊細な側面も
いっぽうで『枕草子』には、清少納言のシャイな姿も描かれています。
はじめての宮仕えのとき緊張で泣きそうになり、定子の前に出て物かげに隠れました。
コンプレックスのくせ毛も見えそうで気が気でなかったようです。
「2月のつごもりごろに」の段では、ある歌の下の句に上の句をつけるよう清少納言が頼まれたとき、返事を待つのが立派な貴族たちと聞いて「どう思われるか心配」と弱気な心情をつづっています。
宮仕えに慣れたころでもナイーブになる場面があったようです。
どちらのエピソードも、明るくはつらつとして負けず嫌いの清少納言とは別人のようで
すね。
実際『枕草子』では「和歌に関しては苦手である」と告白していますので、自信があるように見えても歌を詠むときはドキドキしていたのかもしれません。
思いやりとやさしさも
清少納言は、相手やまわりのことを考えない自分本位のマナー違反について多く批判しています。
いそがしいときに長居する客、酒を飲んで大さわぎする人、遠慮んく音を立てる人、厚かましい子どもとそれを注意しない親などなど…。
そのうえで「よろづのことよりも」という段にて、「男女ともに人情(思いやり)のあることがもっとも素晴らしい」と書きました。
また、思いやりの大切さを知る清少納言自信がやさしい性格でもあったと考えられます。
『枕草子』は、清少納言が主である定子をを元気づけるために書き始めたものだからです。
同作品が執筆されたのは、定子が宮廷でのうしろ盾を失い、不遇におちいった時期とされています。
そんな定子のために清少納言は『枕草子』に明るく楽しい日々を書きつづり、つらい話には極力ふれませんでした。
そして清少納言は、気質もあるでしょうが、定子に『枕草子』を楽しく読んでもらいたいと、明るい世界を描き出そうともしていたようです。
批判やダメ出しがシャープで軽快に書かれた文章には、陰湿さがありません。
清少納言の深い思いやりが伝わってきます。
紫式部はどうみていた?
ちなみに清少納言と同時代に生きた紫式部が、自身の『紫式部日記』のなかに清少納言の性格について書いています。
「清少納言は得意顔で偉そう。
利口ぶって才能を自慢しているが中途半端。
人より目立つことばかり考えている。
風流ぶって軽薄な振る舞い」(意訳)
かなり悪口ですが、裏を返せば清少納言は目立つことが好きな陽気な性格で、理知的でその才を発揮する勝気な性格であることを示しているともいえます。
清少納言を知る人たちは、彼女を明るく気の強い女性とみなしていたようです。
清少納言の性格は社交的であり、自身の教養で周囲の人を楽しませる明るさや、貴族たちをやり込める勝ち気な気質もあわせ持っていました。
ハッキリ主張するサバサバした性格でもあるいっぽうで、じつは繊細な一面もあり『枕草子』からは清少納言の思いやりとやさしさが読み取れます。
現代でいう「理想のキャリアウーマン」のような人物だったのかもしれません。
清少納言の生き方にあこがれる当時の女性は少なくなかったのではないでしょうか。