仕事仲間そして恋人にも?清少納言と藤原行成の親しい関係
藤原行成
『枕草子』のなかでよく登場する貴族のひとりが、「頭弁」(とうのべん。役職)こと藤原行成(ふじわらのゆきなり(ふじわらのこうぜい))です。
行成は一条天皇からの信頼が厚いエリート官僚で、書の達人としても有名でした。
清少納言が宮仕えをしていたころ、行成は天皇の側近として定子のもとを定期的に訪れるようになります。
清少納言は、定子への取り次ぎ役として行成に応対していたことをきっかけに親交を深めたようです。
『枕草子』には清少納言と行成の仲の良いエピソードがいくつも書かれており、遠慮のない友人関係にあったと考えられます。
その親密な様子から、ふたりは恋人だったのではともいわれてきました。
才能を認めあう親友のような関係
『枕草子』によれば、清少納言と藤原行成はおたがいの才能を認めあい、冗談もやりあうような親しい仲だったようです。
行成が「遠江の浜柳のように」(あなたとは永遠の関係でありたい)と友情を固く約束するほどでした。
当時、行成は多くの女房たちから嫌われており、「ほかの貴族のように気軽に歌を詠まず、愛想も悪い。生真面目でおもしろくない人」と批判されていました。
そんななか清少納言だけは「物事のうわべにとらわれず、本質を見極めることができるすぐれた人」と評し、行成と親しくしていたのです。
清少納言は定子にも「あの人は凡人ではありません」と行成をフォローするような発言をしています。
また清少納言は、自分が行成のことを理解しているように行成も自分のことを認めてくれていると知っていました。
以前に行成が清少納言に対し、「女は自分を愛してくれる者のために化粧をする。男は自分の本意を知ってくれる者のために死ねる」と発言したからです。
いっぽう行成は清少納言の才能を認めるだけでなく、6歳ほど年上の彼女を頼りにもしていました。
天皇の命令で定子を訪問するときは必ず清少納言に中継役をお願いしたといわれています。
清少納言が部屋にいないときには探し回り、休暇中で実家に帰っているときには家に押しかけてでも、ほかの女房ではなく彼女に頼ったようです。
「二月、官の司に」の段では、清少納言にすっかり気を許した行成のエピソードも。
あるとき清少納言は行成から、「餅餤(へいだん)」という珍しい菓子に白梅の枝と手紙が添えられた届け物を受け取ります。
手紙には「下男の私が自分で参上すべきですが、醜い顔をさらす昼は参上しません」と書かれており、署名は「みまなのなりゆき」(なりゆきは行成の逆)となっていました。
清少納言は赤い梅の枝を添え、「自分で持参しない下男は冷淡(へいだん)に思われます」と手紙を返します。
すると「下男が来ました」と冗談をいいながら行成がやってきて、「和歌ぎらいの私に歌を返さず機転の利いた行動をとるとはさすがです」と清少納言を絶賛しました。
女房たちからは「おもしろくない」と評された行成ですが、親しい清少納言の前ではユニークな素顔をさらしていたようですね。
ふたりとも博識でありながら和歌を詠むのが苦手であり、似ている者どうし気が合ったのかもしれません。
利用しあう仕事上のパートナー
清少納言と藤原行成の関係には、おたがい利用しあうビジネス的な一面もあったといわれています。
当時の清少納言は、うしろだてを失って苦境に置かれた定子をなんとか盛り返させたいと考えていました。
そこで天皇の信頼があつい行成と親しくすることで、行成が定子派の人物であるとアピールして定子の存在感を印象づけたかったのでしょう。
いっぽう行成は天皇と定子との中継役をまかされた際、自身の社交性のなさを不安に思っていました。
そこで定子に仕えていた清少納言と親しくすることで、清少納言に自分の悪評をフォローしてもらい、結果として定子から嫌われずにすんだのでしょう。
また行成は、天皇やほかの貴族たちに清少納言の才能について頻繁に話をしていたといいます。
行成には、清少納言が宮中の人にほめられれば清少納言を評価する自分の名も高まるという打算があったようです。
清少納言にとっても自分の名が広まることで、定子派に注目が集まるメリットがありました。
このように、ふたりは親しくつきあいながらも利用しあう関係にもあったと考えられます。
恋愛関係にも?
清少納言と藤原行成は恋人どうしだったと見る向きも。
江戸時代の古典学者・契沖(けいちゅう)が、『新拾遺和歌集』(しんしゅういわかしゅう)に収録された「清少納言女(娘)」という歌人について、その父は「行成か」と推測しています。
『枕草子』でも清少納言が行成から言い寄られているような場面があるようです。
平安時代の貴族の女性は家族かよほど親しい人にしか顔を見せず、清少納言と行成も御簾(みす。すだれ)越しに話していたといいます。
するとあるとき行成が「こんなに親しいのだから顔が見たい」とせまってきたのです。
清少納言は断りますが、別の日にふと寝起きの顔を行成に見られてしまって以来ふたりは御簾の中に入って話す関係になったとか。
関係が深まったことを感じさせますね。
「頭弁の、職に参り給ひて」という段で登場する「夜をこめて~」という和歌もふたりの恋愛がらみの歌です。
行成が清少納言に手紙で「昨夜、あなたとの話を切り上げて去ったのは、鶏の鳴き声にせかされて」と言い訳したのがきっかけでした。
清少納言が「鳴きまねで関所をあけさせた中国の函谷関(かんこくかん)の鶏?」と返したところ、行成は「男女が逢う逢坂(おうさか)の関のこと」と答え恋愛の話にすりかえます。
そこで清少納言が詠んだのが、百人一首にもある次の歌です。
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
(鶏の鳴きまねにだまされて関所を開けた故事のように函谷関はだませても私は男女の仲にはなりませんよ)
これに対し行成は「逢坂の関は鶏が鳴かなくても開けているとか。あなたはじつは私を待っているのでは?」という意味の和歌でたたみかけてきました。
年下の行成が年上の清少納言にグイグイ関係をせまっているように見えますね。
ただ実際のふたりは恋愛関係ではなかったと思われます。
当時は恋人や思い人に送る手紙の紙にもかなり気を配っていましたが、行成は前述の一連のやり取りを事務用紙で行っていたからです。
じゃれあう感覚で恋愛に見立てた歌を詠みあったのでしょう。
清少納言のほうも作中において行成を恋愛対象として考えていたようには見られません。
『枕草子』を読む限りでは、姉貴分の清少納言に甘える弟分の行成といった関係性がみてとれます。
ふたりの胸のなかではそれぞれ打算があったかもしれませんが、頭の良い両者ですからそれすらも承知のうえで理解しあえる関係だったのでしょう。
またその親密さは、恋人関係というより性別を超えた親友関係・同僚関係に近いものだと考えられます。