好意から敵対へ。清少納言と藤原道長の関係変化
道長との関係は悪くなっていった
『枕草子』には、平安時代に藤原氏の最盛期を築いた藤原道長の若き姿が登場しています。
清少納言は道長に好感を持っていたようですが、道長が権力者となったのちは間接的に対立しました。
清少納言と道長が直接やりとりした記録は残っていませんが、当時の政治事情や『枕草子』の記述から、ふたりの関係性の変化がわかります。
しばらくは良好な関係
清少納言が定子のもとに仕えはじめたころ、権力者の地位にいたのは定子の父・藤原道隆(ふじわらのみちたか)です。
その道隆の弟である道長は、中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ。中宮に関する事務を行う中宮職の長官)として定子の補佐役をつとめていました。
また道長は下襲(したがさね。内着(下着))の色づかいにも気をつかうようなセンスを持ち合わせた人物だったようです。
定子に仕える清少納言は、そんな道長の様子を間近で見ていたのでしよう。
セレブな貴族であり仕事もできてオシャレな道長に対し、清少納言はあこがれにも似た好意をいだいていたようです。
『枕草子』の「関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて」の段によれば、清少納言が道長のことを何度も話題にしたところ、定子から「例の思い人ね」とからかわれています。
いっぽう道長は、貴族と同等にやり取りする豊かな教養と社交性を持つ清少納言について高く評価していたようです。
のちに道長の娘・彰子の女房として清少納言を登用しようと画策しています。
知りあってしばらくのあいだ清少納言と道長は、ともに定子を支える存在としておたがい好印象の関係だったのでしょう。
個人的な親密関係も?
清少納言が藤原道長に好意をいだいていたのは、ふたりが個人的な親しい関係にあったからではないかともいわれています。
じつは清少納言は道長の推薦で宮仕えをはじめたという説があり、定子を通じて知り合う以前から付き合いがあった可能性があるのです。
さらに『扶桑拾葉集』(ふそうしゅうようしゅう。古典の前書きや日記などをまとめたたもの)などいくつかの文献に残された系図には、清少納言が晩年になって道長の娘・彰子(しょうし)に仕えたと書かれています。
そのほか道長が清少納言に和歌を送ったとする説もあることから、ふたりが恋愛関係だったとみる向きもあるようです。
しかし現在、こうした見解には明確な証拠が見つかっていません。
清少納言が彰子に仕えたという記録については、清少納言の娘が彰子の女房として仕えていたことが誤って伝えられたものと考えられています。
政敵となり関係悪化
清少納言が宮仕えをはじめてから約1年半後の995年、定子の父・道隆の死をきっかけに藤原道長は定子の政敵となります。
道長は道隆の子・伊周(これちか。定子の兄)を追い落とし、権力を手にしたのです。
さらに道長は自分の権勢を強固にすべく、定子にかえて娘の彰子を一条天皇の中宮にしようと画策し、定子までも苦しい立場に追いやりました。
清少納言にとって定子は大切な主人ですので、おのずと道長とは間接的な敵対関係となります。
『枕草子』には権力者になって以降の道長について書かれていませんが、道長を信頼してあこがれていたぶん裏切られたような気持ちがあったでしょう。
前述した「関白殿~」の段では、兄弟関係であるにもかかわらず道長が兄の道隆にひざまずいてあいさつしたことに清少納言が驚く場面が描かれています。
これは生前の道隆の権勢を示すエピソードですが、裏を返せば「道長も道隆様にひざまずいていたくせに」という、清少納言の道長に対する嫌味が込められていたのかもしれません。
道長への寝返り疑惑
定子が道長と敵対するなか、清少納言は定子陣営の女房たちから「道長陣営に寝返ったのでは?」と疑いの目を向けられます。
娘の彰子を中宮にしたい道長にとって、宮中きっての才女・清少納言が定子を支えていることは目ざわりだったに違いありません。
ただ道長は、前述のとおり清少納言を彰子の女房にしたいとも望んでいました。
そんな道長のたくらみが定子陣営に知れわたったのか、清少納言は道長に通じているスパイではないかと疑われたのです。
清少納言は宮中での仕事を休職して自宅に引きこもりがちになります。
このとき道隆の死後すぐに道長陣営に寝返った藤原斉信(ふじわらのただのぶ)が、清少納言に急接近していました。
『枕草子』には、斉信が清少納言とふたりで話をしたいと望んだり、宮中を去った彼女の居場所を周囲の人にしつこく聞きまわったりした様子が書かれています。
斉信の行動は恋愛がらみにも見えますが、道長の意向を受けて清少納言を道長派に引き入れようと動いていたのでしょう。
定子への忠誠、道長への抵抗
疑惑を持たれていた清少納言でしたが、結局のところは藤原斉信の誘いに乗っていません。
清少納言は定子から「あなたが無実であることを知っています」という和歌や、思いやりの深い品物が届けられたのを機に、定子の女房として復帰しました。
そのあと元夫の橘則光(たちばなののりみつ)とは絶縁。
『枕草子』には「夫が風流を理解できないことに愛想をつかした」と書かれていますが、本当の理由は斉信の家の部下となっていた則光との関係を断ち切ることで、道長陣営と決別することにあったようです。
清少納言が斉信と個人的に親しかったのであれば、定子と道長とのはざまで悩んだかもしれません。
また定子のもとに復帰したくても、疑われたままでは戻れない事情もあったでしょう。
しかし、そうした清少納言をつなぎ止めたのは定子からの強い信頼でした。
清少納言は、定子の輝きを残すため『枕草子』を書き続けたともいわれています。
それは定子からの熱意にこたえる形で忠誠を表したものでもあり、堂々と批判できない権力者・道長に対する抵抗でもあったようです。
定子の清少納言への強い信頼が周囲の女房たちをだまらせたのか、それとも『枕草子』にたくされた清少納言の思いを女房たちが知ったのかはわかりません。
やがて寝返り疑惑は自然と無くなり、清少納言は宮中でふたたび定子を支え続けました。
清少納言は藤原道長に良い印象を持っていたと思われますが、道長が定子の政敵になると嫌悪感を抱く存在へと変わっていったようです。
いっぽうで道長は清少納言の才能を評価し、権力強化のため自身の側へ取り込む意図もあったといわれています。
そのため清少納言は仲間から寝返りを疑われましたが、結局は定子との信頼関係を守り続けました。
『枕草子』からは、当時の権力闘争での清少納言の決心が垣間みえます。