清少納言の墓は四国に?各地に残る伝承と四国説の理由
あま塚を管理する観音寺(徳島県鳴門市に所在)
晩年の清少納言は地方をさまよったとされることから、西日本の各地では彼女のお墓とそれにまつわる伝承が伝えられてきました。
そのなかで現代においても清少納言の墓とみなされているのは、四国地方に存在する「あま塚」と「清塚」(きよづか)です。
徳島県に伝わる清少納言の墓・あま塚
徳島県鳴門市に現存している「あま塚」は、その地に残る伝承とともに清少納言の墓として広く知られています。
清少納言は、晩年に父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の領地とされる里浦(鳴門市の地域名)に移住しました。
ところが地元の漁師たちに辱(はずかし)めを受けた清少納言は、それを悲しんで海に身を投げて亡くなってしまったのです。
このあと住民のあいだに目の病気が広まり、清少納言のたたりではないかと恐れられました。
住民たちは、清少納言の霊をしずめようと塚を建てます。
それが現代に伝わる、あま塚です。
「あま塚」の名は、女性を表わす「尼塚」を意味したといわれています。
伝承によれば、後世になってあま塚のそばに「清少庵」((せいしょうあん)が建てられ、そこに住んだ尼が塚を守り供養しました。
ちなみに、あま塚は清少納言の墓ではなく別人のものという説もあります。
ひとつが大アワビをとって海で命を落とした海人(あま。漁民のこと)の男挟磯(おさし)という人物をまつったとする「海人塚」説、もうひとつが鎌倉時代に島流しの刑に処された土御門上皇(つちみかどじょうこう)をまつったとする「天塚」説です。
とはいえ江戸時代に入ると、あま塚は清少納言の墓として有名になっていきました。
いまでは里浦にある観音寺(かんおんじ)があま塚を「天塚」という名で管理し、清少納言の墓として一般公開しています。
香川県に伝わる清少納言の墓・清塚
香川県の「清塚」は、「こんぴらさん」として有名な神社・金刀比羅宮(ことひらぐう)の大門のそばに存在しています。
江戸時代、この墓にまつわる伝承とともに清塚は発見されました。
1710年ころ、大門の脇に太鼓を設置する建物・太鼓楼(たいころう)をつくる途中、そばにあった塚が壊れてしまいます。
すると付近に住む大野孝信(おおのたかのぶ)という人の夢に、緋色(ひいろ。赤系統の色)の袴(はかま)をはいた女性があらわれ次のように伝えました。
「晩年、父の信仰する金刀比羅宮の参拝のためこの地を訪れ、行き倒れて亡くなりこの塚の下に埋められた。この塚を移してくれるな」
そして「この墓は誰の墓か問われたい」という意味の歌を詠んだといいます。
「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど、ありてしもがな」
目をさましたた大野が驚いて金刀比羅宮の人に相談したところ、それはここで亡くなったとされる清少納言に違いないということになり、塚を直しました。
その塚が現代にも残る、清塚です。
四国に多く伝わる清少納言の墓
このほかにも、四国には清少納言の墓に関する伝承がいくつも伝えられています。
香川県では、松尾山のふもとや加茂という地域にもかつて清少納言の墓があったと伝えられてきました。
それぞれの伝承によれば、地元住人のみた夢の中で清少納言が「自分の墓がある」と告げたことことをきっかけに塚が発掘され、そのあとその地にまつられたそうです。
ただし現在でもその塚のあった場所はわかっていません。
高知県南国市には、同地で亡くなったとされる清少納言をまつる名護(なご)神社があります。
ここで没した清少納言を名護大明神としておまつりしたという伝承が残されており、名護神社は清少納言の墓と考えられています。
これら以外に香川県東かがわ市でも、清少納言が亡くなった地としてお堂や神社が存在しています。
ただしこちらは清少納言と同姓同名の別人で、鎌倉時代の女性の逸話であるとするのが一般的です。
京都に伝わる清少納言の墓
四国のほかには京都府、滋賀県、広島県にも清少納言の墓の伝承地があったようですが、具体的な場所も不明で墓は実在していません。
ただ京都については、清少納言が出家して亡くなった場所と伝わる誓願寺(せいがんじ)にかつて墓が存在していたともいわれています。
また清少納言の晩年の居住地として有力な月輪(つきのわ)に、彼女の墓が存在していた可能性も高いようです。
詳細な場所はわかっていませんが、東山の大和小路(やまとこうじ)の南に清少納言の曾祖父・清原深養父(きよはらのふかやぶ)の家があり、その奥に清少納言の墓があったとする伝承が残されています。
ちなみに清少納言が晩年を月輪で過ごした家は、現在の泉涌寺(せんにゅうじ)の近くだったようです。
そのことから、この寺には清少納言の歌碑(かひ。和歌を刻んだ石碑)が建てられています。
清少納言の墓が四国に多い理由
清少納言は一説によれば「四国あたりに落ちぶれた」とされ、彼女の墓とそれにまつわる伝承は地方のなかでも四国に多いようです。
清少納言が生きた平安時代の四国は都から海をへだてた辺境の地であり、わびしく地方をさまよったというイメージにふさわしかったのでしょう。
また徳島には清少納言の父・元輔の領地が里浦にあり、香川には金刀比羅宮の近くに定子の父・藤原道隆(ふじわらのみちたか)の荘園(領地)があるといわれています。
実際にふたりが四国に領地を持っていたのかどうかは不明ですが、もし事実であれば清少納言が晩年に父または定子と縁のある地を頼ったことは十分に考えられますね。
加えて、四国で古くから伝わる観音信仰も関係があったかもしれません。
平安時代は「現世利益」を求める観音信仰が貴族たちのあいだに広まり、清少納言も京都の清水寺(きよみずでら)や長谷寺(はせでら)に参拝していました。
とくに清原家は清少納言の曾祖父・清原深養父が補陀洛寺(ふだらくじ。補陀落(洛)は観音菩薩が降り立つ霊地)を建立したと伝えられるなど、観音信仰に熱心な家柄だったようです。
もしかすると清少納言は晩年に金刀比羅宮に参拝すべく四国に行ったのかもしれません。
または清少納言ならそうしたに違いないと後世の人に思われたのでしょう。
四国の清原氏が自家の名を高めるために、一族の才女・清少納言が四国に来た事実または来たという話をでっちあげ、それが民間伝承と結びつき広まった可能性もあります。
清少納言をまつる神社と供養塔
墓ではありませんが、清少納言ゆかりの神社や供養塔もいくつか現存しています。
ひとつは京都市右京区にある車折(くるまざき)神社。
平安時代の12世紀に活躍した儒学者・清原頼業(きよはらのよりなり)をまつった神社で、境内(けいだい)に「清少納言社」があります。
清少納言の生没年や墓所などがはっきりしないため、後世の人が清原氏ゆかりの車折神社にその御霊をまつったものです。
滋賀県大津市の慈眼堂(じげんどう)の境内にも、紫式部や和泉式部と並んで清少納言の供養塔があります。
大津市は清少納言の百人一首の歌に登場する「逢坂の関」(おおさかのせき、京都と滋賀の境)があったことで有名な場所です。
清少納言のお墓は、彼女が移住したとされる四国や彼女が晩年を過ごしたといわれる京都などに所在していると考えられています。
とくに四国は清少納言との関係があったのか、あま塚・清塚をはじめ彼女の墓にまつわる伝承が少なくありません。
そして現代では墓のみならず各地に神社、供養塔や歌碑など清少納言をしのぶ場所がいくつも残り続けています。
彼女がそれだけ多くの人に愛されてきた証拠なのでしょうね。