おだやかな晩年?それとも没落?清少納言の宮仕え後の人生
泉涌寺(清少納言が近くで晩年を過ごした寺)
清少納言は一条天皇の皇后・定子(ていし)に仕え、『枕草子』を執筆した平安時代の才女として有名ですね。
いっぽう定子が亡くなったあと、清少納言の後半生についてはよくわかっていません。
ただ、宮中を退職してから余生をひっそり過ごしたという説や、落ちぶれて諸国を放浪したエピソードが残されています。
再婚して摂津へ転居、晩年は京都へ
長保2年(1000年)に定子が没したとき、清少納言は35歳前後だったようです。
そのあとも清少納言は宮中に残り、定子の娘・息子たちにも仕えていたというのが従来の一般的な説でした。
現在では、定子の死後ほどなくして清少納言は宮中を辞め、再婚した藤原棟世(ふじわらのむねよ)が働いていた・摂津(せっつ。大阪北部)に移ったという説が有力視されています。
藤原棟世は摂津守(摂津の長官)をつとめていましたので、清少納言は摂津で優雅な暮らしをしていたことでしょう。
この地で彼女は娘・小馬命婦(こまのみょうぶ)をもうけ、また数年間にわたり『枕草子』に手を加えてもいたようです。
子育てしながら気ままに執筆していたのかもしれませんね。
しかし夫との死別(または離別)によって、そうした生活も終わりをむかえます。
清少納言は京都に戻り、父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の山荘がある東山月輪(ひがしやまつきのわ)の小さな家で過ごしたようです(山荘は夫の所有物だったという説も)。
月輪は定子の墓所に近い地域です(周辺には泉涌寺(せんにゅうじ)が所在しています)。
きっと清少納言は、定子の冥福を祈りながら過ごしたのではないでしょうか。
『枕草子』には、「女がひとりで暮らすところは少し荒れて草も生えたような質素で寂しいのが好ましい」と書かれています。
つつましく質素な生活が女のひとり暮らしには相応と感じ、月輪に住むことにしたのかもしれません。
ただ、まったくの孤独というわけではなく、歌人の赤染衛門(あかぞめえもん)や和泉式部(いずみしきぶ)らとも交流していました。
良い景色をみながら、良き友人たちと余生を過ごしたのでしょう。
そして1025年ごろ清少納言は月輪で亡くなったといわれています。
ちなみに詳細は不明ですが、清少納言は晩年を京都の誓願寺(せいがんじ)で尼となって過ごし、同寺で亡くなったという伝承も存在しているようです。
落ちぶれても才智は衰えなかった
清少納言が没落したとする説は、鎌倉時代の説話集『古事談』(こじだん)、『無名草子』(むみょうぞうし)、『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)などの記述により広まりました。
それらによると、清少納言は晩年に出家して尼になり、兄の清原致信(きよはらのむねのぶ)を頼っていたようです。
ところが1017年、致信の屋敷が襲撃され、彼が命を落とす事件が起こります。
『古事談』によれば清少納言はその現場におり、出家姿のため男と間違えられ殺されかけました。
あわやという寸前、彼女は自身の下半身をまくり性器を見せ「女だ」と訴えたといいます。
清少納言は命拾いしたものの、頼れる兄を失い没落の一途をたどりました。
さらに『古事談』では、清少納言は晩年荒れはてた粗末な家に住んでいたとの記述が残されています。
あるとき清少納言の家の前を通りかかった若い貴族が、「清少納言も落ちぶれたなあ」と話をしました。
すると鬼のような形相をした老婆の清少納言が家の中から出てきて、「駿馬(しゅんめ)の骨を買わないというのか!」と怒鳴り返したのです。
名馬は骨になっても買われるという中国の古い故事をふまえ、「老(お)いた自分もその価値は衰えてない」とやり返したのでした。
これらの逸話が事実かどうかはわかりませんが、勝気で才智にあふれた清少納言らしいエピソードといえるのではないでしょうか。
各地に残る清女伝説とその背景
そのほか『無名草子』によると、晩年の清少納言は都会に頼る人がおらず、かつて女中として清少納言に仕えた者の子に助けられながら遠い田舎にこもっていたようです。
清少納言は庶民の着るような粗末な衣服を干しながら、「昔の直衣(のうし。貴族の衣服)が忘れられない」とつぶやきました。
庶民の粗末な衣服と貴族の豪華な衣服、そのギャップがやるせないですね。
こうした高貴な人が落ちぶれるというような話は人々をひきつけ、その内容に尾ひれが付いて各地に広がるものです。
いわゆる「清女伝説」(清少納言伝説)として、彼女にまつわる遺物が各地に残されています。
そのひとつが、徳島県鳴門市里浦町に残る「あま塚」です。
この塚は一説によると、清少納言のお墓とされています。
晩年、父の土地があった浦里に移り住んだ清少納言が漁師たちからはずかしめを受けそうになり、身を守るため海に身を投げたそうです。
そんな彼女をしのんで「あま塚」がつくられたといわれています。
香川県高松市の金刀比羅宮(ことひらぐう)にも清少納言の墓と伝わる塚があります。
江戸時代、とある人の夢に清少納言が出て、彼女の墓のありかとして金刀比羅宮の塚を示したそうです。
こうした清少納言の話は、ライバルとも評された紫式部が自身の日記『紫式部日記』のなかで清少納言を批判していたこととも関係があります。
「清少納言のように知識をひけらかす浮ついた人の末路は哀れ」(意訳)と、彼女の不幸な晩年を暗示していました。
これが鎌倉時代の「才能のある女は不幸になる」という風潮とあわさって、清少納言の没落エピソードが作られたのでしょう。
子に面倒を見てもらった可能性
実際のところは清少納言が生活に困るほど落ちぶれていたとは思えません。
なぜなら、息子の橘則長(たちばなののりなが。先夫との子)は受領(ずりょう。地方長官)に、娘の小馬命婦は上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)の女房にと、それぞれ出世していたからです。
とくに小馬命婦が仕えた彰子は、藤原道長の娘で一条天皇の中宮(天皇の正妻)です。
清少納言のかつての主人・定子のライバルだった彰子は、小馬命婦が仕えたころには天皇の母として絶大な力をもち、宮中に君臨していました。
小馬命婦は、いわゆる当時のキャリア女性として最高の職務についていたわけです。
こうした立派な子どもたちであれば、母親の生活の面倒を見ることもできたでしょう。
少なくとも清少納言は貧乏でなかったはずです。
いまだに謎の多い清少納言の後半生。
再婚したのち晩年を京都で過ごしたとの説が有力ですが、落ちぶれて全国を放浪したというような創作も少なくありません。
たしかに清少納言の晩年は、宮仕えしていたころと比較して華やかなものではなかったでしょう。
しかし、情緒ある「あはれ」な環境で余生を心おきなく過ごしていたのだと思います。