卑弥呼の墓はどこにある?カギを握る「箸墓古墳」
箸墓古墳
奈良県には「箸墓古墳」という大きな前方後円墳があります。
この古墳に眠るのは天皇家ゆかりの皇女であるといわれており、その皇女こそが邪馬台国の女王「卑弥呼」かもしれないという説が有力になってきました。
卑弥呼の墓かもしれない場所
卑弥呼が眠る場所については諸説あります。
「邪馬台国はどこにあったのか」という問題と同じく、九州説と畿内説が論争の中心になっています。
九州説では、おもなものとして福岡県の平原遺跡(ひらばるいせき)や石塚山古墳が卑弥呼の墓として挙げられています。
これらの遺跡からは卑弥呼が魏から贈られたと考えられる中国製の銅の鏡がたくさん見つかっており、その事実が根拠になっているようです。
卑弥呼と同一人物かもしれない巫女が埋葬されている「箸墓古墳」
しかし現在は、畿内説が最も有力視されています。
卑弥呼の墓ではないかと推測されているのが、奈良県桜井市にある「箸墓古墳」という前方後円墳です。
埋葬されているのは第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)という女性だと考えられています。
『日本書紀』によれば、彼女は神のことばを天皇に伝える巫女だったそうです。
卑弥呼も占いやまじないを行っていた巫女であると考えられていますので、同一人物かもしれないという可能性が出てきます。
箸墓古墳の造られた年代とその規模
卑弥呼が死んだのは、248年ごろといわれています。
箸墓古墳が造られたのは3世紀半ばとされているので、卑弥呼が死んだ時期と年代が一致します。
さらに『魏志倭人伝』には、“卑弥呼が死んだので「大きな墓」を造った、その墓は直径が「百歩の円墳」である”という記述があります。
箸墓古墳の長さはおよそ278メートル、後円部の直径はおよそ150メートル。
国内でも有数の規模を誇る古墳となっているので、“大きな墓”といえるでしょう。
しかも“百歩”というのは、当時の中国のものさしで換算すると150メートルくらいになります。
箸墓古墳の後円部の大きさと、ほぼ等しいわけです。
さらに古墳の規模というのは、墓に埋葬された人物の権力や影響力の大きさを物語ります。
箸墓古墳は、30余国を従えていた邪馬台国の女王の墓としてふさわしい規模だといえるでしょう。
邪馬台国の都かもしれない「纏向遺跡」
さらに箸墓古墳のある場所、纏向遺跡(まきむくいせき)にも注目が集まっています。
実はこの遺跡、弥生時代から古墳時代にかけて築かれた大規模集落の遺跡で、邪馬台国の都としても有力視されている場所なのです。
この纏向遺跡が邪馬台国の都であるとすれば、そこに造られた巨大古墳(=箸墓古墳)に眠る人物は邪馬台国の頂点にあった人物すなわち卑弥呼と考えるのが自然でしょう。
今後もっと纏向遺跡の発掘調査が進んで邪馬台国の都であるという説が裏付けられれば、箸墓が卑弥呼の墓である可能性もぐんと高まってきます。
このように、箸墓は卑弥呼の墓としての条件を十分に備えています。
箸墓や周辺の遺跡の発掘調査がさらに進めば、卑弥呼の墓と断定できる日がやってくるかもしれません。