ひとりじゃない?卑弥呼が複数いたとする異説
「卑弥呼」はふたり以上いた?
『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼はひとりであることからも、卑弥呼は唯一の存在と考えるのが通説です。
しかしいっぽうで、複数の卑弥呼の存在をとなえる説があります。
「卑弥呼」は職名として複数存在?
一説では、「卑弥呼」という名前は本名ではなく役職名または称号を意味しており、その地位についた人たちが受けついできたものだといいます。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は180年代に女王に即位してからこの名を使い始めました。
そして239年ごろに中国から「親魏倭王」の称号をもらい、247年ごろに亡くなるまで卑弥呼でありつづけます。
ただ、卑弥呼が60年も在位したというのは長すぎるとの見解があり、このことから途中で「卑弥呼」という役職名が交代したのではないかと推測されているようです。
180年代に女王になった卑弥呼と、239年ごろに親魏倭王をもらった卑弥呼はそれぞれ別の人物というわけですね。
また、卑弥呼の死後、女王に即位した少女・台与(とよ)が「卑弥呼」の名を受けついでいた可能性もあるようです。
役職名としての「卑弥呼」が別々の時代に複数存在していたと考えられています。
卑弥呼は大和と九州に存在?
もうひとつの説は、同一の時代に大和(やまと)、九州それぞれの地域で「卑弥呼」という名前の人間がふたり存在していたというものです。
この説によれば、大和にいた卑弥呼は第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后である神功皇后(じんぐうこうごう)をさします。
神功皇后は、仲哀天皇の死後、神のお告げを聞きながら天皇にかわって国をおさめた人物です。
いっぽう九州の卑弥呼とは、山門県(やまとのあがた。現在の福岡県にある地域)を拠点にした豪族の首長・田油津媛(たぶらつひめ)のことをさします。
そしてこの田油津媛は、神功皇后ら大和の勢力との権力闘争で劣勢に立たされた際に、中国の魏に協力してもらうため使者をおくった人物と考えられているようです。
そのとき魏は、田油津媛が自身を倭国の女王であるとウソをついていることがわからず「親魏倭王」の称号を与えたといいます。
こうして大和にいる本物(神功皇后)と、魏に認められた偽物(田油津媛)というふたりの卑弥呼が同時期に存在することになったというわけです。
ちなみに『日本書紀』によると、神功皇后は九州に遠征し田油津媛を討伐しています。
偽物を許しておくことはできなかったのでしょう。
こうした「卑弥呼・複数人説」は、あくまで異説にすぎません。
とはいえ、卑弥呼の名前を役職名と考える見解には一定の説得力がありますし、政治の事情から卑弥呼がふたり存在することになったという話もありえそうな気がしてしまいますね。