忍耐づよく、配慮でき、したたか。卑弥呼はこんな性格だった?
『魏志倭人伝』
『魏志倭人伝』では、卑弥呼が占いのような鬼道(きどう)を使った女王であったと伝えられています。
しかし彼女がどのような性格の人物であったかについては書かれていません。
そのため当時の時代背景や『魏志倭人伝』での卑弥呼に関する記述などから、彼女の性格について諸説あげられています。
忍耐づよい、配慮ができる、したたか、といった特徴があると推測されているようです。
忍耐づよい性格?
一説では、卑弥呼は感情をあまり表面に出さない忍耐づよさを持っていたといいます。
『魏志倭人伝』によると、女王・卑弥呼は兵たちが警護する宮殿で、鬼道を使って神のお告げを聞くという生活をおくっていました。
女王として神秘性をもたせるためか卑弥呼はほとんど姿をあらわさず、1000人の女性がつかえていたものの彼女の部屋に出入りしていたのは男性ひとりのみだったそうです。
卑弥呼は、その男性をつうじて民衆に神のお告げを知らせ、政治を行なっていました。
こうした内容から、一般社会から離れた宮殿にこもり特定の人としか会わず、ただひたすら神にお祈りをしていたというストイックな生活が想像できますね。
しかも卑弥呼は、このような生活を50年ちかくも続けていたといわれています。
女王であり続けるためとはいえ、半世紀ものあいだ不自由な生活をおくった卑弥呼。
かなり忍耐力づい性格だったのでしょう。
まわりに配慮する性格?
卑弥呼は周囲の人に配慮できる性格の人物だったという見解もあるようです。
『魏志倭人伝』の記述によれば、古代の日本では男性の王がトップに立っていたものの戦争が続いたため、諸国が協力し、卑弥呼を女王にしたといいます。
卑弥呼は独裁的な王ではなく、その神秘的な力への期待から多くの民衆の支持を得て女王となったわけです。
当時は30前後の国々が邪馬台国のもとにありましたが、同盟国とはいえ諸国の利害を調整するのはかなり難しかったに違いありません。
それでも卑弥呼が国を平和にまとめられたのは、彼女が各国にうまく気づかいしながら、それぞれの民衆が納得できる答えを出せていたからではないかと考えられているようです。
こうした推測から、卑弥呼の鬼道とは、人々の願いをくみとり、みんなが妥協できる案を神のお告げとして伝えるものだったとする説も存在します。
卑弥呼がまわりに配慮できる人物だったからこそ、長期にわたり女王であり続けられたかのかもしれません。
したたかな性格?
いっぽうで卑弥呼には、したたかな一面があったとも考えられています。
『魏志倭人伝』によれば、魏(現代の中国)に使者とみつぎ物をおくった卑弥呼は「親魏倭王」(しんぎわおう)、つまり日本の王として認められました。
諸国の同盟により女王となった卑弥呼が、大国である魏をうしろ盾にすることで、その地位を安定させようとしたからです。
しかも卑弥呼は効果的なタイミングで使者をおくっていました。
卑弥呼が魏に使いをおくる直前、魏は朝鮮半島の公孫氏(こうそんし)を滅ぼしています。
邪馬台国はこの公孫氏とも友好関係にありましたが、公孫氏の敗北を知るとすぐ魏に使者をおくりました。
朝鮮半島や日本などの動きを警戒していた魏は卑弥呼のそうした行動をおおいに歓迎し、彼女に親魏倭王の称号を与えたというわけです。
さらに卑弥呼は魏との関係をとことん活用しました。
240年代に邪馬台国と狗奴国(くなこく)との戦争が開始すると、さっそく卑弥呼は魏に報告し、魏からの支援を受けています。
これらの外交戦略を卑弥呼ひとりの考えで行なったかどうかはわかりません。
ただ奈良県の東大寺山古墳から、卑弥呼が即位してまもない180年代後半に作ったと思われる、中国後漢(ごかん)王朝の鉄剣が出土しています。
卑弥呼の名はどこにもないものの、時代背景から考えて卑弥呼が後漢王朝に使いをおくった際の返礼品である可能性が高いそうです。
卑弥呼が即位当初から一貫して積極的な外交を展開し、したたかに外国の力を利用していたとも考えられます。
あくまで推測ですが、卑弥呼は女王として忍耐づよく配慮ができるいっぽうで、したたかな面を持っていたようです。
自分に厳しくありながら人の声には耳をかたむけ、そして冷静に物事を判断できた人物だったのかもしれません。