著書に愚痴を発見!紫式部は清少納言が嫌いだった?
『紫式部日記』に悪口を書いていた?
『源氏物語』の作者であり、平安時代に女流作家として名を馳せた紫式部。
彼女は同じく女流作家の清少納言を嫌っていたといいます。
しかし紫式部と清少納言には、直接の面識がありませんでした。
紫式部が会ったこともない清少納言を嫌ったのは、ふたりの性格の違いや、清少納言に夫をバカにされたためといわれています。
彼女たちの性格や関係性をふまえつつ、紫式部が清少納言を嫌った具体的理由をみていきましょう。
天皇の妻に仕えたふたり
紫式部と清少納言は、共に当時の天皇・一条天皇の妻に仕えていました。
一条天皇には定子と彰子、二人の正妻がいます。
紫式部は彰子、清少納言は定子につき、それぞれ家庭教師を務めていたようです。
こう聞くと、ふたりは同時期に近くで働いていたように思えるかもしれません。
しかし実際には、清少納言が定子に仕えていたのは西暦993年から1000年までのあいだ、紫式部が彰子に仕えたのは西暦1006年からとされています。
つまりふたりが働いた期間はかぶっておらず、面識がなかったわけです。
紫式部は、清少納言と直接には顔を合わせたこともありません。
それにもかかわらず清少納言を快く思わなかったのは、彼女の著書『枕草子』の存在が関係していました。
夫をバカにされた紫式部
枕草子は日本初とも世界初ともいわれる随筆作品、いわゆるエッセイ本です。
清少納言は、日記のように日々の事柄や思い出などを記しました。
そのなかに、藤原宣孝という人物についての記述があります。
内容は現代風にいえば「TPOをわきまえず派手な格好していた」というようなものでした。
問題は、この藤原宣孝が紫式部の夫だったことです。
清少納言は「紫式部の夫だから」という理由で藤原宣孝について記したわけでは決してありません。
しかし紫式部にとっては、夫を小バカにされて不快に感じたのでしょう。
性格が全く違ったふたり
紫式部は、聡明さを表に出さない控えめな性格の持ち主でした。
対して清少納言はとても派手な性格で、自分の賢さや才能を隠すことがなかったといいます。
男性社会だった平安時代、女性ながらもバリバリ前に出ていく清少納言は紫式部の目に良くは映らなかったようです。
紫式部は『紫式部日記』という作品のなかで、清少納言について言葉を残しています。
「偉そうに賢さをアピールする嫌な女」「あんな人の行く末にいい事などないでしょう」といった辛辣なものでした。
いっぽうで、清少納言が紫式部個人について言及した記録は見つかっていません。
そのため、紫式部が一方的に清少納言を嫌っていたと考えられます。
紫式部と清少納言には、直接的なつながりはありませんでした。
しかし面識はなくても、清少納言の言動は紫式部に不快感を与えたようです。
夫をバカにされ、清少納言にいい印象を持てなかった紫式部。
お互い正反対な性格であったこともあり、彼女はより嫌悪を募らせたのかもしれません。