周防命婦それとも檜垣媼?清少納言の母の人物像を考察

清少納言の母親はどんな人物だったのか?

清少納言の父は貴族で歌人の清原元輔(きよはらのもとすけ)ですが、母については誰なのか現在も不明です。
清少納言の母親について言及した記録がほとんどなく、清少納言みずからも母親のことを書き残していません。

ただ、さまざまな史料から「周防命婦」(すおうのみょうぶ)と「檜垣媼」(ひがきのおうな)という女性が清少納言の母親として考えられてきました。

清少納言の父・元輔の後妻?「周防命婦」

清少納言の母親について、周防命婦という名前の女性ではないかとする説があります。

じつは清少納言が誕生したのは、彼女の父・清原元輔が59歳ごろのときです。
また清少納言には兄がおり、彼女とは年が20歳近く離れていました。
これらの史実から、清少納言とその兄の母は同一人物ではなく、清少納言の母は元輔の後妻だった可能性があると考えられています。
そして女流歌人・檜垣媼(ひがきのおうな)の歌集『檜垣媼集』(ひがきのおうなしゅう)によると、元輔は周防命婦という名の妻を肥後(現在の熊本県)に連れてきていたようです。
元輔は79歳のとき肥後守(ひごのかみ。熊本県の長官)として京都から派遣され、現地で檜垣媼と交流していたのでした。
このエピソードからは、元輔の後妻が周防命婦だったと推測できます。

元輔は周防守(すおうのかみ。山口県の長官)をつとめていた経験もあることから、後妻に周防命婦という名前が付いたとする見解もあるようです。
とはいえ平安時代では複数の妻を持つのが当たり前でした。
仮に周防命婦が元輔の妻であったとしても、清少納言を出産した母であるとまでは断定できないでしょう。

周防命婦の人物像

一説によると、10世紀末の京都に周防命婦と名乗る女性がいました。
その周防命婦は円融天皇の乳母(うば。養育係の女性)の娘で、藤原貞孝(ふじわらのさだたか)という人物と結婚して娘をもうけたといいます。

いっぽう清少納言の父・元輔は、権力の頂点にいた藤原氏のなかでも、藤原実頼(ふじわらのさねより)や、その孫の実資(さねすけ)らの小野宮家(おののみやけ)と親しくしていました。
周防命婦の夫・藤原貞孝もこの小野宮家と近い親戚です。

こうした人間関係を踏まえると、小野宮家を通じて元輔と周防命婦は長い付き合いだったとも考えられます。
貞孝とわかれた周防命婦が清原元輔と再婚し、清少納言を産んだ可能性も低くはないでしょう。

周防命婦を元輔のいとことする説もあります。
清少納言から見て父のおじにあたる清原重文(きよはらのしげふみ)の娘が周防命婦であると考えられているようです。
その根拠として平安時代は、いとこやまたいとこ同士で結婚する例が多かったこと、重文が周防守を経験したことなどが挙げらています。
ただ、重文に娘がいたとわかる史料は見つかっていません。

元輔と親交のあった歌人「檜垣媼」

以前は清少納言の母のもうひとりの候補として、前述した檜垣媼ではないかという説もありました。
鎌倉時代の物語評論である『無名草子』(むみょうぞうし)に「清少納言は檜垣の子」と書かれていることが、その理由だったようです。

檜垣媼についての詳細は謎に包まれていますが、彼女は九州で歌人として活躍し『後撰和歌集』((ごせんわかしゅう)にも歌が掲載されるほどだったといいます。
『檜垣媼集』によれば、檜垣媼は元輔が筑後守(ちくごのかみ。福岡県の長官)だったころに知り合い、しばらくして肥後で元輔と再会しました。
そうした交流関係もあって、檜垣媼が清少納言の母と考えられていたのかもしれません。

ただし清少納言が生まれたのは960年代なかばですが、元輔が筑後守だったのは970年代、肥後守に就任したのは986年と推測されています。
清少納言の誕生時に元輔と檜垣媼は知り合ってもいなかったわけですので、現在では檜垣媼は清少納言の母説候補として否定されています。

清少納言の母は受領階級の娘?

清少納言が生まれた清原家は、受領(ずりょう)と呼ばれる階級に位置していました。
受領とは中央から地方へ派遣された国司(こくし。地方長官)のことで、中央で政治を行う上流貴族の下に位置する貴族がつとめます。
清少納言の祖母(元輔の母)や清少納言の結婚相手も同じような受領階級にいたことから、清少納言の母も同等クラスの女性だったかもしれません。

11世紀に天皇が作らせた歌集『御拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)には、清少納言について「母若狭守(わかさのかみ)女」と補足説明が書かれています。
若狭守とは現在の福井県の国司を意味しますので、やはり清少納言の母は受領階級と関係が深いといえるのではないでしょうか。

ただ平安時代は、貴族の結婚相手として同じような地位の家の娘であればどの家でも良かったわけではありません。
多くの貴族たちは幅広く結婚相手を探すというより、縁戚や親交がある近いグループ内において相手を求めました。
小野宮家に近い周防命婦(円融天皇の乳母の娘)が清少納言の母だった可能性も捨てきれないでしょう。

清少納言の母も宮仕えをしていた?

清少納言の母についてほとんど記録が残されていないのは、身分や実績において目立つ人ではなかったからなのかもしれません。
清少納言の文人としての才能は、歌人として有名な父親ゆずりのものだったのでしょう。

いっぽうで清少納言の女としての生き方は、母親からの影響を受けていたかもしれません。
『枕草子』のなかで清少納言は、「夫にすがるウソくさい幸せに満足している(貴族の)女はバカらしい」と専業主婦について否定的な立場です。
そして「世間ではみっともないといわれても、女性は宮仕えして外の世界を見るのが良い」と続けています。

周防命婦は、その名前から宮中につとめた経験があったようです。
また元輔のサポート役として肥後に向かい、歌人とも交流していたといいます。
もし周防命婦が清少納言の母親であるとすれば、そんな母の近くで育ったからこそ清少納言も「宮仕えをすべき」と考えたのかもしれませんね。

清少納言の母親については周防命婦と桧垣媼の可能性がいわれてきました。
清原家に近い周防命婦は、記録がないものの清少納言の母である可能性も低くはないようです。
いっぽうの檜垣媼は現代では清少納言の母と考えられていません。

そのほか清少納言の母親の身分としては受領階級の娘であり、宮仕えの仕事をしていたとも推測できます。
清少納言自身も宮仕えをしていましたし、のちに受領の夫を持ったこともあわせて考えてみると、なかなか納得のいく話に思えてくるのではないでしょうか。

この記事を書いた人

葉月ねねこ

日本史を愛してやまないライター。とくに謎が謎を呼ぶ歴史ミステリーが大好き。歴史の魅力を多くの人と共有したいと願う。