ハゲネズミ、きんかん頭…織田信長が作ったあだ名・名前の数々
信長は名づけ名人だった?
「短気でこわい人」というイメージの織田信長ですが、彼にはさまざまなあだ名を作るユーモラスな一面もありました。
人の特徴をうまくとらえたあだ名を家臣につけたり、現代のキラキラネームよりさらに変わった名前を自分の子につけるなど、信長は独特のセンスを持っていたようです。
秀吉のあだ名「ハゲネズミ」
織田信長が家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし。のちの豊臣秀吉)のことを「サル」と呼んでいたのは、『太閤記』(たいこうき。秀吉の伝記)などでおなじみですね。
しかし現時点で信長が秀吉を「サル」と呼んだ証拠はありません。
実際のところ信長は「サル」よりもっと残念な、「ハゲネズミ(禿鼠)」というあだ名を秀吉につけました。
秀吉の浮気を悲しむ妻ねね(おね)に信長が書いた手紙の中では、「あの禿鼠め」と秀吉のことをはっきりハゲネズミ呼ばわりしています。
このあだ名は、秀吉のヒゲの薄さがまるでネズミのわびしいヒゲのようだと信長がからかって名づけたもののようです。
また、秀吉のすばしこい性質をネズミにたとえてもいるのかもしれませんね。
信長が秀吉のことをいつも「ハゲネズミ」と呼んでいたかどうかは謎です。
秀吉の同僚・前田利家(まえだとしいえ)の回想録『国祖遺言』(こくそゆいごん)によれば、信長は秀吉のことを「六ツめ」というあだ名で呼んでいたようです。
秀吉の右手の指は生まれた時から6本あったといわれており、成人しても指を切り落とさず6本指のままだったといいます。
信長はそれを秀吉の特徴とみなし、「六ツめ」と名づけました。
光秀のあだ名「きんか頭」
織田信長は、重臣の明智光秀に対して「きんか頭」(きんかん頭)というあだ名をつけています。
光秀のはげ頭が果実の金柑(きんかん)のようにツルツル光っているから名づけたか、または光秀の頭の形が縦長でいびつな金柑の形に似ているから名づけたとするのが有力な説です。
また「きんか頭」とは、信長の漢字のシャレによる巧妙なあだ名だったという見解もあります。
光秀の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を組み合わせると「禿」の漢字になることから、禿げのイメージ=きんか頭と名づけたのだそうです。
短気な信長がまわりくどい名づけ方をするのは意外な気もしますね。
ちなみに光秀は、このあだ名をかなり嫌っていたといわれています。
信長に「このきんか頭が」と頭をはたかれ槍で追いかけまわされたことがあり、そうした屈辱が本能寺の変を起こした動機のひとつだったという説も。
とはいえ信長本人に悪意はなく、親しみを込めてあだ名をつけたに過ぎないようです。
秀吉や光秀のほかにも、津島(現在の愛知県津島市)の出身で小柄の平野甚右衛門(ひらのじんえもん)には津島小法師(津島のチビ)、ちょっぼり甚右衛門(ちびの甚右衛門)とよんで目をかけました。
ネガティブでしかないあだ名も
織田信長はユーモアまじりのあだ名を考えるいっぽう、ネガティブな(否定的な)意味の強いあだ名をつけることもありました。
家臣の佐久間信盛(さくまのぶもり)につけた「大ぬる山」は、「なまけ者」という意味です。
織田信長が越前(現在の福井県)の朝倉氏に軍を進めた際、「大ぬる山」という山にいた信盛が油断して攻撃に遅れ、これを責めた信長が「なまけ者」の意で「大ぬる山」と名づけました。
それから信長は信盛だけでなく、なまけ者、ぐずぐずしている者を「大ぬる山」と呼んだといいます。
織田家の家臣にとっては主君の信長から絶対に呼ばれたくない名前ですね。
さらに信長は、四国を統一した土佐の戦国大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)には「鳥なき島のコウモリ」というあだ名をつけました。
これは「鳥のいない島では飛べるというだけでコウモリがいばっている」という意味で、別の言葉にたとえれば「井の中の蛙」(いのなかのかわず)と同じようなものです。
強い大名がいない四国で偉そうにしている小さな大名と、元親のことを皮肉ったわけです。
「第六天魔王」と自称
さらに織田信長は、みずからを「第六天魔王」(だいろくてんまおう)とも名づけました。
第六天魔王とは、仏教修行の邪魔をする悪魔の王というような意味です。
仏教をあつく信仰していた武田信玄から、比叡山の焼き討ちを非難する手紙が送られてきたことがきっかけでした。
信玄が「天台座主沙門」(てんだいざすしゃもん。天台宗のトップである座主の代理)と自称して信長を批判すると、信長は信玄への返書に「第六天魔王」と署名します。
自身が悪魔のトップとして天台宗をはじめとした仏教諸宗の妨害をするという思いのもと、そう自称したのでした。
ただ、この返書は現存しておらず、宣教師ルイス・フロイスの著書にそうしたエピソードが残されているに過ぎません。
どこまで真実かは不明ですが、信長らしい気質がうかがえますね。
子どもにもユニークな命名
そして信長は自身の子どもたちに対しても、あだ名のようなおもしろおかしい幼名(子ども時代の名前)を命名しています。
長男の信忠は顔が奇妙だから「奇妙丸」(きみょうまる)、次男の信雄は髪型が茶道具の茶筅に似ていたから「茶筅丸」(ちゃせんまる)といったように、信長は子どもの見たままを名前にしました。
そのほか「大洞」(おおぼら、おぼう)、「小洞」(こぼら、こぼう)、「良好」といった幼名も同様のものでしょう。
さらには「人」という、当時でも人名とは思えない変わったものもあります。
いっぽう信長は側室のお鍋の方が生んだ子に対して、「鍋」には欠かせない杓子の意で「酌(しゃく)」と命名しました。
また長女には、誕生時にたまたま五徳(ごとく。鍋を置く三脚付きの調理用具)が目についたため「五徳」と名づけています。
同母兄妹である奇妙、茶筅と3人で五徳の足のように支え合ってほしいという願いが込められているという説もあるようですが、いずれにしても調理用具を名前にするのは変ですよね。
当時の幼名といえば、先祖から受けつがれてきた名前、子どもの健やかな成長を願った縁起の良いもの、強い子になるよう動物にたとえたものなどが定番でした。
織田信長の幼名である「吉法師」(きっぽうし)も縁起から考えられたものといわれていますが、そうした慣習を信長は気にもとめなかったのでしょう。
織田信長は個性的なネーミングセンスでもって、豊臣秀吉や明智光秀など家臣たちにあだ名をつけてました。
自身の子どもの名づけでもそのセンスが発揮され、かなり変わった命名をしています。
もしかすると信長が作ったあだ名や幼名は、権威や前例を嫌う信長が形式にとらわれた名前を茶化するためのものだったのかもしれません。
これまで紹介した信長の「作品」を振り返ってみると、信長の自由な生きざまがみえてきませんか?