本能寺、大徳寺、崇福寺…全国に多数ある織田信長の墓まとめ

大徳寺総見院

織田信長は本能寺の変で遺体もろとも焼かれたとされ、遺骨は見つかっていません。
そのため遺骨をおさめた正式な墓の所在も不明です。

しかし信長を供養するため、これまで全国に20カ所以上の墓が建てられてきました。
有名な本能寺や大徳寺のほか、信長の遺骨などがおさめられているとの逸話がある墓も存在しています。

信長が最期をとげた本能寺

京都市中京区の本能寺の本堂の奥には、「信長公廟」(のぶながこうびょう)と名づけられた信長の墓があります。

本能寺の変から1カ月ほどして信長の三男・信孝(のぶたか)が本能寺を信長の墓所(墓のある場所)と決め、御廟(ごびょう。墓と施設)を建てました。
ただし遺骨はなかったため、かわりに武士の魂とされる信長愛用の刀を墓におさめたといいます。
墓のそばには、森蘭丸(もりらんまる)をはじめとする本能寺の変で戦死した家臣100名ほどをまつる供養塔も建てられました。

ちなみに信長が生きていたころ本能寺は堀川四条という地域に位置していました。
信長の死後からしばらくして、豊臣秀吉の命令で現在の寺町に移転しています。

豊臣秀吉が建てた大徳寺総見院(そうけんいん)

京都市北区の大徳寺総見院は、羽柴秀吉(はしばひでよし。のちの豊臣秀吉)が主君・織田信長の一周忌にあわせて大徳寺の敷地内に建てた寺です。

寺には織田一族の墓所が作られ、信長と長男・信忠(のぶただ)や次男・信雄(のぶかつ)など織田一族の五輪塔(四角や丸形を重ねた墓の形)の墓が7基、さらに信長の妻・濃姫(のうひめ)や娘の徳姫など女性たちの墓が存在しています。

本能寺の変から100日の法要を秀吉が大徳寺で行ったとき、信長の遺骨がなかったため信長の等身大の像をふたつ用意し、そのうち1体を火葬しました。
残りの1体は現在も総見院に安置されています。

いち早く信長の墓とされた崇福寺(そうふくじ)

岐阜市の崇福寺は、信長が岐阜に本拠地を変えた際に織田家の供養をする寺と定義した寺院です。
本堂の裏に信長と信忠の墓所、そのとなりにはふたりの位牌(いはい。法名などを書いた札)をおさめた豪華な位牌堂があります。
この位牌は前述の大徳寺の法要で使われました。

崇福寺は信長の数あるお墓のなかでも、いち早く信長の墓所と定められた場所です。
本能寺の変からわずか4日後、お鍋の方(信長の側室(妻)のひとり)が崇福寺を信長の位牌所(供養する寺)とするよう手紙を送っています。
寺は手紙と一緒に送られてきた信長ゆかりの品を埋葬し、位牌を安置して信長と信忠をとむらいました。

ほかの言い伝えでは、お鍋の方はさらに信長の首を崇福寺の墓所にうめたともいわれています。
お鍋の方が自分で行ったのかそれとも誰かに指示したのか不明ですが、これが事実であれば崇福寺に信長の首がうまっていることになりますね。

織田家の聖地・安土城跡(あづちじょうせき)

滋賀県近江八幡市の安土城の二の丸跡にも信長の墓が存在しています。
現在の墓は1831年に改修されたもののようです。

一説によれば本能寺の変の翌年に羽柴秀吉が墓所を建立し、遺骨の代わりに信長が使っていた刀や烏帽子(えぼし。和服の帽子)などを埋葬したといいます。
信長の一周忌には織田一族や家臣とともに法要を行ない、秀吉は城と墓の管理を安土城ちかくにある摠見寺(そうけんじ)に命じました。

また別の説では信長の死後、安土山に埋蔵金があるという話を聞いて山に入った人たちが武士の亡霊に襲われる出来事が続いたため、秀吉が信長の霊をしずめるため城に墓所を建てたともいわれています。

本物の墓ともいわれる阿弥陀寺(あみだじ)

京都市上京区の阿弥陀寺は、信長の遺骨が埋葬されている墓が存在するとして有名です。

寺をひらいた清玉上人(せいぎょくしょうにん)は、信長と親交が深かった人物でした。
伝説によれば本能寺の変を知った清玉上人が本能寺に駆けつけ、信長の家臣たちにかわって信長の遺体を火葬し、遺骨(または遺灰)を寺まで持ち帰り墓を建てたといいます。
のちに清玉上人は、二条御所で死亡した信忠の遺骨も収集して信長の墓のとなりに信忠の墓を建て、さらに森蘭丸(もりらんまる)など本能寺の変の戦死者たちを供養する墓も作りました。

じつは当時から阿弥陀寺に遺骨があるかもしれないという話が出まわっており、羽柴秀吉も寺にその引き渡しを求めたようです。
しかし寺がこれを断ると、秀吉は寺の領地を減らし、寺を当時の今出川大宮という地域から現在の寺町へと移転させました。

信長の一族が建てたそのほかの墓

有名な墓のほかにも、各地に信長の兄弟や子どもたちが建てた信長の墓が残されています。

瑞龍寺(ずいりゅうじ。富山県高岡市に所在)

信長の家臣・前田利長(まえだとしなが)の墓がある瑞龍寺には、信長の遺骨の一部をおさめたともいわれる墓があります。

利長は信長の娘の永姫(えいひめ)を妻にしており、本能寺の変の際には信長に呼ばれて妻とともに本能寺へ向かう途中でした。
そうした関係から、本能寺の変のあと利長は義理の父である信長の分骨をもらい信長の霊をとむらっていたと伝えられています。
そして弟の利常(としつね)が利長の晩年の地・高岡に瑞龍寺を建て、前田利家・利長のほか、信長、信忠、信長側室・正覚院の石廟(せきびょう)を安置しました。

西山本門寺(にしやまほんもんじ。静岡県富士宮市に所在)

西山本門寺の本堂の裏には、信長の首塚があります。

寺の伝承によれば、信長の家臣・原宗安(はらむねやす)が有名な僧・日海(にっかい)の指示により、父や兄の首とともに信長の首を西山本門寺まで持ち帰り首塚を作ったそうです。
現在も信長の首が地中に埋まっているといわれていますが、真偽のほどはわかっていません。

総見寺(そうけんじ。愛知県名古屋市中区に所在)

総見寺には信長と信雄の墓があり、織田信長の像なども保存されています。

信長の次男・信雄は父の霊をとむらうため、もともと伊勢国(現在の三重県)にあった安国寺総見寺を尾張国清洲(きよす。現在の愛知県清須市)に移転しました。
のちに尾張徳川家が名古屋に転居したとき、総見寺も現在地に移転したようです。

建仁寺(けんにんじ。京都府東山区に所在)

建仁寺の庭園・大雄苑(だいおうえん)には、織田有楽斎(おだうらくさい)が建てた兄・信長の供養塔も存在しています。
現在は七重の石塔ですが、元は十三重の石塔でした。

聖隣寺(せいりんじ。京都府亀岡市所在)

聖隣寺には、信長の四男で羽柴秀吉の養子になっていた羽柴秀勝(はしばひでかつ)が父・信長をとむらうために建てた塔があります。

秀勝は本能寺の変のあと聖隣寺に近い亀山城の主となりましたが、かつてこの地を支配し城下町を整備したのは明智光秀でした。
光秀のかつての領地に、光秀が倒した信長の供養塔が建てられるとは不思議な因縁ですね。

全国各地にあるそのほかの墓

信長の墓を作ったのは、織田一族の人だけではありません。
信長ゆかりの神社や、信長をしたう人々が建てた寺社も全国各地に残されています。

劔神社(つるぎじんじゃ。福井県越前町に所在)

劔神社の敷地内には小松建勲(こまつたていさお)神社があり、信長がまつられています。
一説によれば、信長の祖先はこの地で神官をしていたようです。
信長が越前を支配下におさめるとこの神社を保護するよう命じて織田氏を守る神とあがめました。

西光寺(さいこうじ。滋賀県近江八幡市に所在)

西光寺には、信長の墓とされる五輪塔が残されています。
そこには阿弥陀寺から分骨された信長の遺歯(いし。歯のこと)が埋葬されているそうです。
ちなみに西光寺は1580年に信長が安土に建てましたが、本能寺の変のあと安土から少し離れた現在の中村町に移されました。

建勲神社(たけいさおじんじゃ。京都市北区に所在)

建勲神社は、1869年に明治天皇の命で建てられた、織田信長をおまつりする神社です。
神社には、かつて信長が愛用していた「義元左文字」(よしもとさもんじ)という刀が所蔵されています。

当初の建勲神社は東京の織田家の敷地内に建てられ、のちに現在の船岡と呼ばれる地域に移転しました。
この地は、かつて秀吉が信長のために建立を計画していた天正寺の跡地です。

ちなみに山形県天童市や兵庫県丹波市にも織田信長をまつる建勲神社が所在しています。

大雲院(だいうんいん。京都市東山区に所在)

大雲院は、信長と信忠の霊をとむらため正親町天皇(おおぎまちてんのう)の命で建てられた寺院です。
信忠の法名から「大雲院」の名がつきました。
最初は信忠が死んだ二条御所の跡地に建てられたものの、しばらくして豊臣秀吉の命で下京区の四条河原町にうつり、さらに1973年には現在地に移転しています。

妙心寺玉鳳院(みょうしんじぎょくほういん。京都市右京区に所在)

妙心寺の最古の塔頭(たっちゅう。大きな寺の敷地内にある小さな寺院)とされる玉鳳院には、信長の重臣・滝川一益(たきがわかずます)が建てた織田信長と信忠の供養塔があります。

妙心寺では信長の妹・お市が信長の100日法要を行ないました。
また供養塔のとなりでは武田勝頼(かつより)や信勝(のぶかつ)など信長に倒された武田家の供養塔が並んでおり、歴史の皮肉を感じさせます。

南宗寺本源院(なんしゅうじほんげんいん。大阪市堺区に所在)

南宗寺の塔頭である本源院には、織田信長と信忠の供養塔が残されています。

本源院は江戸時代初期に薩摩(さつま)藩主の寺として建てられたものであることから、そこになぜ信長の供養塔があるのかはわかっていません。
本源院が大徳寺を本山としていたからともいわれています。

高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ。和歌山県高野町に所在)

高野山金剛峰寺の奥の院(空海をまつる場所へと続く参道)には戦国武将の墓が多くあり、織田信長のものも存在しています。

その供養塔に彫(ほ)られている「悉地院」(しつじいん)の文字は、当時、高野山に存在した寺をあらわすものです。。
悉地院の住職は信長の家臣の弟で、信長のために祈祷(きとう。祈りをささげること)をおこなった僧でした。
そうした伝承から、この住職が高野山金剛峰寺に信長の墓を建てたと考えられています。

いっぽう信長の墓のそばに息子・秀勝の墓があることから、秀勝の母が墓を作ったとする説もあるようです。

泰厳寺跡(たいかんじあと。熊本県八代市に所在)

泰厳寺は、信長の家臣・細川忠興(ほそかわただおき)が信長の供養のため建てた寺院です。

もともと丹後国(現在の京都府)の宮津に所在していましたが、江戸時代に忠興の移転にともなって寺も大分さらに熊本へとうつり、忠興によって信長の供養塔も建てられました。
現在この寺は無くなって石塔だけが残されています。

織田信長の墓は全国各地に存在していますが、遺骨を埋葬したという正式な墓はわかっていません。
信長の墓がたくさんある背景には正式なものが存在しないことや権力者の思惑もありますが、それだけ信長をしたう人が多かった証拠ともいえるでしょう。

この記事を書いた人

葉月ねねこ

日本史を愛してやまないライター。とくに謎が謎を呼ぶ歴史ミステリーが大好き。歴史の魅力を多くの人と共有したいと願う。