「人間五十年~」「是非に及ばず」織田信長の名言まとめ

『敦盛』の題材にもなった平敦盛

戦国の乱世で天下統一まであと一歩にせまっていた織田信長。
その波乱に富んだ人生のなかで、数々の名言や歌を残しました。
戦国の世を生き抜いた信長のさまざまな言葉は、いまの世にも重みをもって訴えかけてきます。

凡そ勝負は時の運に寄ることなれば、兼ねて計らざる所なり

「およそ勝負は時の運であるから、計画して勝てるものではない。
武士にとって手柄が大切とはいえ、それも内容しだいである。
大将を目指す者ならば手柄を望むな。」

これは長島一向一揆(ながしまいっこういっき)との戦いで、強い敵兵を倒し、その首を持ってきた家臣・蒲生氏郷(がもううじさと)に信長が発した言葉です。

戦いは入念に準備をしていても何が起こるかわからないため、大将には戦局を見きわめる役割があり、目先の手柄を求めて軽率な行動をとるなと信長は蒲生をさとしたのでした。
大胆不敵な人物として知られる信長ですが、戦いについては慎重派だったようです。

美濃(現在の岐阜県)の斎藤氏や甲斐(現在の山梨県)の武田氏をほろぼしたときも、十分に勝て
ると見込んだうえで戦いを仕掛けました。
今川義元に勝利した桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)でも、信長は義元が休憩中であること、敵兵が疲れていることなどを計算したうえで奇襲をしかけています。

兎角(とかく)手の外(ほか)を致し、下(しも)より積られぬが誠の大将なり

あるとき信長が息子・信忠(のぶただ)の人柄を家臣に聞くと、「皆の期待するような恩賞をくださる器用(有能)な方」という返答がかえってきました。
すると信長は失望し、「器用ではなく不器用だ。そんなことでは信忠を私の後継者にできない」といって、次のように理由を述べました。

「家臣が恩賞として刀がもらえると思ったときには衣装を与え、馬をもらえると思ったときには金銀をとらせるといった意表をつくやり方が大将の作法である。
これは戦いにおいても同じであり、敵が来るはずないと考えて油断している場所に出撃すれば勝利できる。
見た目を器用そう(能力のあるよう)にふるまう人の実際は思慮のない人だ。
相手の読みをはずし、下の者に手のうちを予想されないのが本当の大将である。」

改革者としても知られている信長らしく、大将には人とは違う独創的な考えが必要とみなしていたようです。
新しいことに挑戦すれば周囲から非難されたり失敗したりするリスクもありますが、大将にはその覚悟も必要であるとも信長は言いたかったのでしょう。
桶狭間の戦いでは、信長が周囲の反対を押し切って今川義元の本陣へ突入するという意表をつくやり方で大勝利を呼び込みました。

たしなみの武辺(ぶへん)は生まれながらの武辺に勝れり

「日ごろから訓練して得た戦いの能力は、生まれついてもった才能をうわまわる。」

すなわち苦労して身につけた能力は生まれつきの才能よりも優れていると、信長が努力することの大切さをといたものです。

信長といえば天才というイメージもありますが、じつは努力をサボらない人でした。
うつけといわれ遊びほうけていた信長は、いっぽうで兵法を学び、武芸、馬術などに熱心に取りくんでいたといいます。
桶狭間の戦いや長篠の戦い(ながしののたたかい)の勝利は、信長の槍や鉄砲の使い方についての研究が役に立った側面もあるようです。

人を用ふるの者は能否を択ぶべし、何ぞ新旧を論ぜん

「人を使うときは、能力の有無で選ぶべき。奉公年数の長さは関係ない。」

身分の低い豊臣秀吉を取り立てて重要な役職につけるなど、家柄や勤続年数を気にせず、能力で人材を選んだ信長らしい言葉です。

ただ、能力主義を実現するには人材を使う側の技量も必要になりますね。
信長がそれをもっていたことは次のエピソードでわかります。

あるとき信長は、二条城にいた将軍・足利義昭の護衛をつけることになりました。
家臣たちは、信長の古くからの家臣で実績もある佐久間信盛(さくまのぶもり)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)の3人が候補だとうわさします。
ところが選ばれたのは、まだ身分が低く実績も浅い木下秀吉(きのしたひでよし。のちの豊臣秀吉)だったのです。

家臣たちは反対しましたが、信長はとりあいませんでした。
細かいところまで心くぱりでき何ごとにも臨機応変に対応できる秀吉こそが、この大役に適任だと考えていたからです。
信長が家臣の能力をよく把握し適材適所に配置していることを知った家臣たちはますます信長のことを尊敬したといいます。

総じて人は心と気を働かすを以てよしとするなり

「人は心と気を働かす(気くばりする)ことをもって良しとするものだ。」

あるとき信長は、小姓(こしょう。主君の身の回りのことをする家来)たちの心がまえを試します。
小姓を呼んで何も命令せず下がらせては別の小姓を呼ぶといったことを繰り返しました。
すると3人目の小姓が退室の際、室内に落ちていたチリを拾うと信長がその小姓をほめたたえたのです。

「人は心と気を働かせることが大切。
戦いも潮の満ち引きと同じで、攻撃と引くときはタイミングを読む必要がある。
お前はチリに気づいて拾った。
感心だ。」

信長は、周りの状況に応じて自分で考え自主的に行動できる人材を求めていたようです。
必要とされることを積極的に行う秀吉のような人はどんどん出世させる反面、考える努力もせず働きが悪いと判断すれば、佐久間信盛のように長年の功労者であっても追放しています。

箆(へら)捨てて~

箆(へら)捨てて直(す)ぐに気を持ち かせぎなば おのづからみを もちあぐるなり

信長が家臣たちの前でよく口にしていたとされる教訓です。
「竹のヘラのように曲がった気持ちを捨て、自分の心にまっすぐ従い力を尽くせば成功する」と、自分に素直になることを進めたのでした。

ぶれずに自分の信じる道を進みなさいという力強い言葉からは、みずからが時代を切り開こうとした信長の気概を感じますね。

ちなみに現代では、岐阜の崇福寺(すふくじ)や安土城の摠見寺(そうけんじ)に、この言葉の意味を絵で表現した狩野永徳(かのうえいとく)作の絵馬が残されています。

是非(ぜひ)に及ばず

本能寺の変の際、攻めてきた相手が明智光秀と聞いて信長は「是非に及ばず」との言葉を残しました。

「是非」とは「良くも悪くもない」という意味で、「是非に及ばず」は「仕方がない」というようなニュアンスの発言になります。
信長は、戦略家としての実力も高い光秀に囲まれもう逃げ道がないと観念したのでしょう。

乱世を生きるうえでつねに死を覚悟していたからこそ出た、いさぎのよい言葉です。

人間五十年~

人間五十年下天(げてん)のうちを比ぶれば夢幻の如くなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか

「人の命は短く、仏の世界と比べれば夢や幻のようなもので、この世に生まれて滅びないものはない。」

これは信長の代名詞のような名言ですが、信長のオリジナルではありません。
舞の一種である幸若舞(こうわかまい)の演目『敦盛』(あつもり)の一節です。

「人間五十年」は彼の死生観ともいわれています。
信長は、いつ命を落とすかわからない時代だからこそ悔いのないよう精いっぱい生きようとしました。
桶狭間の戦いの前にも敦盛を舞って出陣したそうです。

信長の句や歌

織田信長は中世の武将らしく、いくつかの歌もよんでいました。
信長のひととなりが伝わる句や歌を厳選して紹介します。

2本手に入る今日の喜び

足利義昭の将軍就任のあいさつを訪問した連歌師・里村紹巴(さとむらじょうは)から2本の扇子(せんす)を差し出された信長が即興でよんだ句です。
「2本(日本)手に入る今日(京)の喜び」と、2本の扇子と日本、今日と京都を掛けています。

なれなれてあかぬなじみの姥口釜(うばくちかま)を 人にすわせんことをしぞ思う

信長が家臣の柴田勝家に「天猫姥口釜(てんみょううばぐちかま)」と名づけられた茶湯の釜を贈る際に詠(よ)んだ歌とされています。
「自分がなれしたしんだ姥の吸い口を人に吸わせたくないなあ」と、釜を手ばなすさびしさをユーモアまじえて詠みました。

うらみつる 風をしつめてはせを葉の露(つゆ)を心の玉みかくらん

乱世の風を静めて、芭蕉(ばしょう)の葉から露がこぼれ落ちることのないように、自分の心を磨いていくという意味になります。
「芭蕉」とは植物のことで、その弱い葉が秋風を思わせることから秋の歌に詠まれる植物としても有名です。

乱世をおさめて平和な世の到来を願う信長の気持ちが詠まれた歌とされています。

織田信長のこうした数々の名言からは、彼がどのようにして群雄割拠の時代を勝ち抜けたのかが見えてくるのではないでしょうか。
そしてこれらの名言は現代でも、上司としてのふるまい、働き方や人事などサラリーマンにも役立ちそうに思います。

この記事を書いた人

葉月ねねこ

日本史を愛してやまないライター。とくに謎が謎を呼ぶ歴史ミステリーが大好き。歴史の魅力を多くの人と共有したいと願う。