吉田茂がサンフランシスコ講和条約に調印した理由とは?
サンフランシスコ条約に調印する吉田茂
サンフランシスコ講和条約は、第二次世界大戦後に、アメリカを中心とした48か国と日本のあいだで結ばれた条約です。
当時の総理大臣・吉田茂によって調印され、戦争の終結や日本の主権回復が各国に認められました。
条約締結に反対する国民の声もあったなかで吉田茂が調印に踏み切ったのはなぜなのか。
その理由をご紹介します。
主権を取り戻したかった
第二次世界大戦で敗戦国となった日本は戦勝国の占領下に置かれ、国としての主権を失っていました。
政治を行うのにも他国の監視・干渉を受けており、日本は非常に不自由な状況だったのです。
占領された状況から一刻も早く抜け出すためには、日本の主権を取り戻し、独立国家として地位を確立する必要がありました。
主権の回復には、戦争で敵対した国々との講和(=戦争終結の合図)が不可欠です。
そこで吉田茂は、アメリカを中心とした連合国と「単独講和」を結ぼうと考えました。
単独講和を狙って
単独講和は、アメリカなど一部の対戦国と講和を結ぶ方法です。
いっぽう、すべての対戦国との講和を求めるのが全面講和になります。
日本国内は単独講和派と全面講和派に二分されていましたが、吉田茂はアメリカに使者を送るなどして、単独講和を押し進めていきました。
全面講和を結ぶことはできないと悟っていたからです。
第二次世界大戦が終結した後も、アメリカを筆頭とした西側諸国と、ソ連を筆頭とする東側諸国は対立を深めていました。
全面講和を望むのであれば、西側諸国と東側諸国、双方と講和を取りつけなくてはなりません。
両者が冷戦状態にある限り、同時に講和を進めることは不可能だったのです。
どちらか一方しか選べない状況で、吉田は西側諸国の中心的存在であるアメリカとの講和成立のために尽力します。
日本は形式的に連合国軍の支配下ということになっていましたが、実際に日本を占拠していたのはアメリカでした。
日本を支配していたアメリカと講和を成立させることが主権回復への最短ルートだと、吉田は判断したわけです。
アメリカと講和を結べなければ、日本が国家として完全に独立することはできなかったでしょう。
アメリカと思惑が一致
吉田茂がアメリカとの講和を画策するいっぽう、実はアメリカでも日本と講和を結ぼうとする動きがありました。
前述のとおり、アメリカ側とソ連側は冷戦状態です。
勢力を拡大していた東側諸国に対抗するための拠点として、アメリカは日本を利用しようとしていたのです。
講和を結び日本とアメリカが友好関係を築けば、日本は自然と西側諸国の仲間になります。
主権を取り戻した日本が国力を高めていけば、ソ連らを牽制するうえで大きな力になるとアメリカは考えたのです。
主権回復を求める日本と、独立国家としての日本を利用したいアメリカの思惑が一致しました。
吉田はこれをまたとないチャンスと捉え、講和成立に向けて話を進めます。
1951年9月4日、日本の全権を委任された吉田は講和会議の行われるサンフランシスコへと渡りました。
そして同年9月8日、アメリカを含む48か国が署名した文書に吉田が調印したことで、サンフランシスコ講話条約が締結されたのです。
吉田茂は、一刻も早く日本の主権を回復させ国家として完全独立するという目的から講和条約に調印しました。
東側諸国と対立していたアメリカの狙いと噛み合わなければ、日本が主権を取り戻すのはもっと後になっていたかもしれません。