聖徳太子が生まれたのは磐余か飛鳥?出生地候補と馬小屋伝説を探る

橘寺(太子殿)

古代の偉人・聖徳太子。
その出生地(生まれた場所)は現代でも大きな謎のひとつです。

聖徳太子が推古天皇のもとで活躍した飛鳥(あすか)、太子が前半生を過ごした磐余(いわれ)や軽といった地域、そして葛城(かつらぎ)など複数の候補があります。
さらには馬小屋で生まれたという不思議な伝説も。

謎に満ちた聖人・聖徳太子のルーツを追ってみましょう。

どの宮中で生まれた?

聖徳太子は、橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ。のちの用明天皇)とその異母妹、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)のあいだに生まれました。

『日本書紀』では、穴穂部間人皇女が宮中の見回りをしているときに厩(うまや、馬小屋)の戸に触れて急に産気づき、太子を安産したと記されています。
「宮中」とありますが、当時の天皇である敏達天皇(びだつてんのう。聖徳太子の伯父)の王宮なのか別の宮のことなのかは判明していません。

そこで父の橘豊日皇子が居住した宮の所在地が、聖徳太子が出生地を知るカギとなってきます。
候補地を地域別にみてみましょう。

出生地候補①:磐余地域

ひとつめの候補は、古代の都・磐余地域。
現在の奈良県桜井市中部から橿原市南東部の池尻付近までの一帯です。

推古天皇が飛鳥(奈良県明日香村)にうつる前の5~6世紀、聖徳太子が生まれたころの政治の中心地は、飛鳥の少し北東にある磐余地域でした。
いわば磐余は飛鳥の前の都です。

聖徳太子の父も磐余の池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)で用明天皇として即位。
太子自身もこの宮の南にある上宮(うえのみや、かみつみや)で育っています。
『日本書紀』では太子の出生地を池辺双槻宮とイメージしていたようであり、太子は磐余で生まれ育ったと考えられています。

ちなみに池辺双槻宮は5世紀前半に造られた人工池・磐余池のほとりに築かれていたそうですが、所在地はわかっていません。
ただ近年、広大な池跡や建物跡が見つかった橿原市東池尻町が所在地として有力視されています。
そのほか上宮の候補地である上之宮遺跡(桜井市)の北にある若桜神社、または石寸(いわれ)山口神社付近なども出生地候補です。

出生地候補②:飛鳥地域

飛鳥地域は6世紀後半、推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)を造営したのち約100年にわたって代々の宮が築かれた場所です。
飛鳥には父の橘豊日皇子の名と同じ橘(たちばな)という地名があり、橘の宮が存在していた可能性から聖徳太子の出生地候補のひとつとなっています。

また聖徳太子を本尊として祀(まつ)る橘寺(たちばなでら)も、太子が生まれた場所として有名です。
橘寺の伝承では、次のような説が書き残されています。

「ここに欽明天皇(きんめいてんのう)とその息子である用天皇の離宮・橘の宮があり、聖徳太子は572年にここで生まれた。
のちに推古天皇の命で、太子が御殿を改造し寺を橘樹寺(たちばなのきてら)と命名した。」

飛鳥にあった父の宮で聖徳太子は生まれ、のちに宮を寺に改築したというのです。

この説を裏付けるかのように、橘寺の創建は聖徳太子と同じ時代の7世紀ごろという説があります。
寺の東南には聖徳太子の本名とされる厩戸(うまやと)という古い地名があったともいわれていますので、聖徳太子との深いかかわりを感じますね。
ただし地名は鎌倉時代のもので、飛鳥時代にあったかどうかは判明していません。

飛鳥は豪族・蘇我氏の本拠でもありました。
蘇我氏を母に持つ、即位前の橘豊日皇子の宮が存在していたとすれば、蘇我一族に面倒をみてもらいながら聖徳太子がここで生まれ育ったとも考えられます。

ちなみに橘寺の近くにはもうひとつ、かつて聖徳太子の出生地とされた寺がありました。
橘寺から東南の地にある、飛鳥時代創建の坂田寺です。

寺は現存していませんが、橘寺の東南にある厩戸の地域のすぐそばに所在していたためか鎌倉時代まで橘寺と並んで生誕地候補とされていました。
ただし橘寺が出生地として優勢になるにつれ、坂田寺説はかき消されていったようです。

そのほかの出生地候補

飛鳥と磐余以外にも聖徳太子の出生地候補があります。

そのひとつが飛鳥の北、磐余の西にあたる軽(かる)地域の「厩坂宮」(うまやさかのみや。橿原市大軽町付近)です。

古代では厩戸の「戸」と厩坂の「坂」はどちらも地方の出入り口という意味で、厩戸と厩坂は同義の言葉でした。
また当時は皇子の名前を出生地などに関連する地名をもとに付ける場合が多かったようです。

これらのことから、聖徳太子の別名「厩戸」は厩坂宮にちなんだものであり、太子がそこで生まれ育ったと考えられています。

また、聖徳太子が生まれたころの軽地域は蘇我氏の影響下に置かれていました。
太子が両親から蘇我氏の血を受けついでいたのだとすれば、やはり軽の厩坂宮で生育していた可能性があります。

もうひとつが大和国の葛上郡(かづらきのかみのこおり)という地域に相当する葛城地方です。
奈良県金剛山寺(きんぷせんじ)の鐘(かね)に文章が刻まれており、その内容から鎌倉時代初期の葛上郡に「馬屋戸」という地名があったことがわかりました。
同じ地名が飛鳥時代にも存在していたかどうかは不明ですが、聖徳太子の「厩戸」は馬屋戸にちなむのではないかと注目されています。

また葛城の地は、蘇我氏発祥の地です。
蘇我氏の血筋である聖徳太子が葛城で生まれ、馬屋戸の地名にちなんで厩戸と命名されたという推測もできるでしょう。

馬小屋で生誕?

ほかにも聖徳太子には、なんと馬小屋で生まれたという逸話も存在しています。

キリスト教の祖であるイエス・キリストが馬小屋(または家畜小屋)で生まれたのと同じようだったというのです。
しかも聖徳太子の母は、イエスの母が天使のお告げを受けてイエスを身ごもったように、観音が口から入り太子を身ごもったのだとか。

イエスの伝説と似ているため、聖徳太子の伝説はキリスト教をもとに創作されたのではないかという説もあります。
8世紀ごろキリスト教のネストリウス派である景教(けいきょう)が中国経由で日本に伝わっていたようです。

ただ、お告げを受けて生まれるという話は釈迦や中国の伝説などにも存在しています。
イエスとはまったくの無関係ともいえるでしょう。
また『日本書紀』が作られたとき「厩戸皇子」という名前の由来がわからず、作者らが「馬小屋で生まれたたため厩戸と名づけた」という話を創作したのではないかとも考えられています。
イエスと似たような設定は、ただの偶然だったのかもしれません。

聖徳太子の出生地候補として有力なのは、父の宮があり、自身が育った磐余の池辺双槻宮です。
ただ、父が即位前の皇子時代には飛鳥に住んでいた可能性も少なからずあります。

馬小屋で生まれたというのは、おそらく事実ではないでしょう。
聖人・聖徳太子ならではのユニークな生誕伝説ですけれどね。

この記事を書いた人

葉月ねねこ

日本史を愛してやまないライター。とくに謎が謎を呼ぶ歴史ミステリーが大好き。歴史の魅力を多くの人と共有したいと願う。