聖徳太子は架空の人物?5つの根拠と聖人が作り出されたワケ
聖徳太子童子像(深奥山方広寺に所蔵)
約1400年前の飛鳥時代、憲法十七条、冠位十二階など数々の政策を進め、日本国家の土台を築いた聖徳太子。
日本を代表する古代のスーパースターとして、その功績は現代まで語り継がれてきました。
ところが近年、その存在が疑問視されています。
聖徳太子は架空の人物とされ、その名が教科書から少しずつ姿を消しているのです。
なぜ存在を消されようとしているのか、その謎をくわしくみてみましょう。
聖徳太子は厩戸皇子とは違う?!
聖徳太子は、6世紀末に即位した用明天皇の皇子として生まれました。
聖徳太子の本名は厩戸皇子(うまやどのおうじ。「厩戸王」とも)、別名は厩戸豊聡耳皇子(うまやととよとみみのみこ)といいます。
彼は若くして推古天皇の摂政や皇太子に即位したのち、
- 憲法の制定
- 官僚制度の創設
- 仏教の興隆
- 中国との対等の外交
- 朝鮮出兵による軍事強化
といった、当時としては革新的な偉業をひとりで成し遂げ、古代日本の基礎を築きました。
仏教を大切にし、「複数人の話を同時に聞く」といった超人エピソードも数多く伝えられます。
後世、その業績をたたえて聖徳太子という名前がおくられたほどの人物です。
しかし現代になって、聖徳太子は実在していなかったという説が出ています。
もっとも厩戸王という皇族は実在していたことでしょう。
ところが彼は単なる政治家にすぎず、日本をひとりで作り上げたスーパーマン・聖徳太子のような人物ではなかったというのです。
このような聖徳太子架空説が生まれた背景には、以下のような5つの根拠がありました。
架空説の根拠その1:『日本書紀』
聖徳太子の数々の業績は、720年前後に完成した日本の正史(国が編さんした歴史書)『日本書紀』に記録されています(ただし同書に聖徳太子の名はありません)。
聖徳太子はその約100年前の622年ごろに亡くなっていました。
つまり没後1世紀になって突然『日本書紀』に、数々の偉業を行った聖人へと変貌した厩戸王が登場したのです。
『日本書紀』以外に聖徳太子のことを示す史料といえば、法隆寺関連の仏像や天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)といった工芸品があります。
これらには聖徳太子のことを記した銘文が残されているのですが、飛鳥時代には使われていなかった「天皇」という言葉が刻まれており、後世のものとする説が根強いです。
やはり聖徳太子は『日本書紀』で急に登場していると考えられるわけですね。
これほどの超人が、100年近く知られていないのはおかしいと思えませんか。
逆にいえば、100年ほど過ぎれば誰も生存当時の皇子のことを知らないともいえます。
聖徳太子の名前も『日本書紀』にはなく、751年の『懐風藻』(かいふうそう。現存する日本初の漢詩集)に記されています。
『日本書紀』に登場した聖人に、とってつけたように名前が付けられました。
こうした聖徳太子の不自然な登場や膨大な実績から、彼が本当にいたのかどうか疑問がもたれているのです。
次項以降で述べる業績をみても、本当は聖徳太子のものではないという見解があり、『日本書紀』での聖徳太子像は架空説が有力となっています。
架空説の根拠その2:憲法十七条
『日本書紀』に記された聖徳太子の数々の業績そのものにも、疑問が少なくありません。
そのひとつが憲法十七条。
『日本書紀』には604年、聖徳太子と思われる人物が憲法十七条を制定したと記されています。
ところが、憲法の全文が掲載されているのは『日本書紀』だけなのです。
日本の冠位十二階制度を伝える中国の史書も、憲法十七条については一言もふれていません。
しかも憲法十七条には、飛鳥時代の日本人が知るはずのない中国の思想や政治が盛り込まれていました。
当時はまだ存在しなかった「国司」という官名も盛り込まれています。
これでは聖徳太子の時代に憲法十七条が作られたつじつまがあいませんね。
後世に創られたとする見解が有力です。
架空説の根拠その3:冠位十二階
『日本書紀』では、603年に冠位十二階が定められたとあります。
これは実力で人材を採用するための日本初の官僚制度でした。
中国の史書にも冠位十二階についての記述があり、同制度が存在していたのは確かです。
ただし『日本書紀』には、冠位十二階を聖徳太子が創設したとは書かれていません。
実は当時の政界の実力者である豪族・蘇我馬子が冠を与える側に回っています。
つまり蘇我氏が冠位十二階の創設を主導した可能性が高いということです。
渡来系の人々と親しい蘇我馬子が中心になって、中国や朝鮮半島の冠位制度を取り入れて冠位十二階をつくったと考えられます。
また中国(隋)に対等の外交を迫った遣隋使の派遣についても、『日本書紀』には聖徳太子が主体的に行なったとは記されていません。
架空説の根拠その4:『三経義疏』
飛鳥時代の日本において、仏教は大陸から伝えられた最新の文化でした。
聖徳太子は仏教を保護し、寺院を建立します。
平安時代に記された聖徳太子の伝記には、仏教経典の注釈書『三経義疏』も太子が執筆したとあります。
これは『法華義疏』・『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』といった3つの書物の総称です。
もし本当に執筆したのであれば、聖徳太子は優秀な政治家というだけでなく、天才学者だったことにもなります。
しかし近年、『勝鬘経義疏』は6世紀後半に中国で作られたものを取り入れたとする説が有力です。
『法華義疏』は下書きを聖徳太子が手掛けたという説も根強いものの、残りの2書については後世の執筆または中国からの輸入の可能性が指摘されています。
『三経義疏』もまた聖徳太子が関与していないとなると、架空説がますます現実味をおびてくるわけです。
架空説の根拠その5:偽りの肖像画
紙幣や教科書にも掲載された聖徳太子のあの肖像画は有名ですよね。
日本最古の肖像画ともいわれますが、現在この肖像画は聖徳太子ではない別人のものとみられています。
根拠は絵の中の冠や衣服、笏(しゃく。手に持つ細長い板)が後世のもので、聖徳太子の時代にはなかったものとされるからです。
肖像画が偽物であったとしても、聖徳太子の存在とは関係ない話と思えるかもしれません。
しかし肖像画が残ることで偉大な人物と考えられてきたことも確かです。
聖人・聖徳太子のイメージを作った肖像画が偽りであれば、またひとつ聖徳太子の聖人伝説が揺らぐのではないでしょうか。
厩戸王の実態
こうしてみると、数々の偉業が聖徳太子の実績でない可能性が高まってきます。
摂政や皇太子という地位も、飛鳥時代に存在したのかどうか謎とされているようです。
聖徳太子こと厩戸王の実像で明らかなのは、
「用明天皇を父、蘇我氏の血を引く皇女を母として生まれた」
「斑鳩宮を作り、法隆寺を建てた」
といったことのみです。
有力な皇族の厩戸王は実在していても、ひとりで日本を導いた理想のリーダー聖徳太子は存在していなかったと考えられます。
当時は推古天皇のもと、厩戸王が蘇我馬子などの豪族たちと協力して政治を行っていたとするのが有力な説となっています。
蘇我馬子の子・善徳説
現在の架空説では聖徳太子=厩戸皇子が主流ですが、これ以外にもさまざまな説が。
まずは、聖徳太子の正体を蘇我馬子の長男の善徳(ぜんとこ)とする異説です。
蘇我善徳は蘇我氏の氏寺である法興寺の司長となった人物で、聡耳皇子(さとみみのみこ)、馬屋門皇子(うまやとのみこ)という別名がありました。
この名前はどこか聖徳太子を思わせまんか。
善徳を蘇我馬子の子・入鹿(『日本書紀』では馬子の孫)と記す記録もあり、善徳は入鹿であり、聖徳太子でもあると考えられています。
さらに、この善徳が天皇(倭王)だったという説も。
当時の中国王朝・隋の歴史書である『隋書』によると、608年に倭王に会った隋の使者が「倭王は男性」と報告しているのです。
当時の天皇は女性の推古天皇なのでつじつまが合いませんが、善徳こと聖徳太子が天皇であれば納得できます。
善徳は645年の乙巳の変(いっしのへん)で、中臣鎌足と中大兄皇子によって殺害されました。
『日本書紀』では善徳の存在を隠すために善人の聖徳太子と悪人の入鹿を作りだしたのではないか…という説もあるようです。
蘇我馬子の分身説
聖徳太子は蘇我馬子の分身として作り出されたという異説もあります。
この説によれば、飛鳥時代の日本は馬子が用明天皇として即位して以降ずっと蘇我王朝だったというのです。
しかし乙巳の変で蘇我氏は倒され、新しい天皇が立ちました。
新天皇の側は自分たちを正当化しなければなりません。
そこで『日本書紀』において皇族の聖徳太子という架空の人物をつくり、前の時代からずっと天皇が政治を主導してきたことにしたわけです。
蘇我王朝の歴史を無かったことにしようとしたのでしょう。
外国人説
さらに聖徳太子は外来の王だったという異説も。
かつて中央アジアのトルコ系民族の国・西突厥(とっけつ)に達頭可汗(タルドゥ・カガン、可汗は王の意味)という人物がいました。
彼は優秀な王でしたが、中国の隋との戦いに敗れ姿を消しています。
一説によると、そのあと高句麗を経て日本に渡り、聖徳太子になったというのです。
聖徳太子は推古天皇の入り婿となり摂政として活躍したといいいます。
以降、対外的には倭王としてふるまったとも、倭王になったというエピソードも。
隋に強気な対等外交を申し出たのは、外国の事情に明るく、隋をよく知る達頭だからできたのかもしれません。
法隆寺に西アジアの文物が多いのも、彼とのつながりによるものなのでしょうか。
聖徳太子が作りだされたワケとは?
このように聖徳太子の正体については諸説あり、謎は深まるばかりですね。
ただし、さまざまな説についてほぼ共通している点があります。
都合の悪い真実を隠すために『日本書紀』で過去の歴史をリセットしていること。
そして聖徳太子の架空のイメージや都合のよい歴史を作り出していること。
一般的な「聖徳太子=厩戸王」説では、どのような真実を隠したかったのでしょう。
聖徳太子の時代は天皇の力も弱く、蘇我氏に押されていました。
しかし乙巳の変を機に中臣鎌足と中大兄皇子は天皇を中心とした国造りを目指し、天皇の権力強化をはかります。
そのひとつが、歴史から天皇の正当性を語る『日本書紀』の作成です。
編さんの中心にいたのは、鎌足の子で当時の実力者・藤原不比等。
不比等にとって、自分の父が倒した蘇我氏が、飛鳥時代の国造りのリーダーという歴史は都合がよくありません。
それは天皇家側も同じだったため、飛鳥時代の国造りの功績を蘇我馬子や豪族たちから皇族・厩戸王の功績にすり替えたのです。
不比等らは、スーパーヒーローを生み出すいっぽう、蘇我氏を抵抗勢力として悪人に仕立てたというわけですね。
『日本書紀』によって登場した聖徳太子像はその後、意外な発展をします。
不比等の娘で聖武天皇の皇后・光明子(こうみょうし)は、藤原氏のまわりで不幸が相次ぐと、僧の行信(ぎょうしん)のすすめで、聖徳太子を神とあがめました。
そこから聖徳太子を神とする聖徳太子信仰が始まり、のちには観音菩薩の生まれ変わりとされます。
以降、聖徳太子は芸術、学問、仏教、兵法などさまざまな分野の始祖として信仰されていきました。
まさに日本のすべてを作った聖人へと変貌していったのです。
聖徳太子がいなかったかどうか、まだはっきりしているわけではありません。
しかし数々の史料をみると、聖徳太子のようなスーパーマンが古代日本をつくったというのは幻想の可能性が高いでしょう。
『日本書紀』から生み出された聖徳太子伝説は、多くの超人伝説を加えながら現代にまで伝えられました。
人間でなく神の存在にまで達した背景には、いつの時代においても理想の聖人を求め続けた人々の願いが込められていたのかもしれません。