聖徳太子が隋に対等外交をしかけた理由と成功に至ったワケ
煬帝
607年、聖徳太子は中国を統一した隋に、小野妹子を使者とする遣隋使を送りました。
ところが隋の皇帝・煬帝(ようだい)は、妹子から渡された外交文書を読んで激怒します。
そこには「日が昇る国の天子(てんし)から日が沈む国の天子に文書を送ります」と書いてあったからです。
「日が昇る国」とは日本のこと、そして「日が沈む国」とは隋のことを指します。
また中華圏において「天子」とは天から認められた支配者を指し、中国の皇帝ただひとりが名乗ることができるものでした。
天子は自分ひとりと考える煬帝にとっては、無礼以外のなにものでもなかったでしょう。
なぜ聖徳太子は大帝国の隋を相手に対等の外交を求めたのか、4つの理由とその後の結末をみていきます。
朝鮮半島で優位に立とうとした
聖徳太子が対等外交を求めた最大の理由は、朝鮮半島での外交戦略にありました。
隋に従う朝鮮諸国、とくに任那(みまな)問題で対立していた新羅(しらぎ)より日本が上位にあることを示したかったようです。
当時の日本は、影響下にあった任那を新羅に併合された状態でした。
日本は任那の調(みつぎ。貢ぎ物)を確保しようと新羅に遠征を繰り返しましたが、うまくいきません。
そこで聖徳太子は大帝国の隋の登場に目をつけ、隋を通して新羅に圧力をかけるという外交戦略に切り替えたのです。
日本と隋が対等の外交関係を結べば、隋から冊封を受けて従属する新羅に対して日本が優位に立てると考えました。
こうした戦略の背景には、聖徳太子が仏教の師として尊敬する、高句麗(こうくり)出身の僧・慧慈(えじ)が存在していたともいわれています。
隋と対立中の高句麗が日本を味方にするため慧慈を派遣し、そのとき彼が太子に隋との対等外交を助言したそうなのです。
日本を隋に並ぶ大国とアピールさせて隋をけん制する狙いがありました。
国内統治に中国のうしろ盾が不要になった
聖徳太子が対等外交を求めたもうひとつの理由は、天皇の国内統治において中国の権威が不要になったという点です。
聖徳太子の時代より1世紀以上前の5世紀の天皇たちは権勢が弱く、豪族を完全に支配下に置いていませんでした。
そこで天皇たちは中国皇帝に使節を送り、王号や称号をもらう冊封(さくほう)を受けたのです。
大国をうしろ盾にして豪族より優位に立ち、国をまとめたのでした。
それから約1世紀のあいだ日本の天皇支配は強化され、聖徳太子のころには天皇と豪族の序列も明確になっていきます。
わざわざ中国のお墨つきを得なくても、天皇が国内をおさめる体制が整っていたのです。
そして天皇の権威が強くなるにつれ、天皇は天下の支配者という考えが世の中に広まっていきました。
天下の支配者である天皇が他国の皇帝の冊封を受け、臣下となるわけにはいきませんよね。
聖徳太子は、隋と対等な関係になることが天皇の権威をさらに高めることにつながるとも考えたようです。
自立した文明国であることを示したかった
また聖徳太子には、日本が隋と対等に付き合える自立した文明国であることを国内外に示す意図もあったといいます。
隋の記録によれは、遣隋使の派遣は冒頭の607年が初めてではなく600年にも行われました。
そのとき隋の皇帝から日本に政治制度がないことを非難され、野蛮な後進国とみなされて追い返されたのです。
これを知った聖徳太子は内政を改革し、冠位十二階、憲法十七条を整備。
外国の使節を迎えるのにふさわしい宮もつくり、国の近代化を図りました。
そうして国家としての形を整えたうえで聖徳太子は607年に2回めの遣隋使を送ります。
太子には、日本が自立した近代国家に発展したという自負があったのでしょう。
だからこそ大国にひるまず対等外交を求め、冊封関係の解消をせまったわけです。
隋が北朝だったため不要と考えた
そのほか、隋が北朝であることを理由とする説も存在しています。
聖徳太子は、北朝に対して冊封を受ける必要がないと考えていたようです。
隋が統一する前の中国は、漢民族の南朝と、異民族が集まる北朝にわかれていました。
その北朝から興隆したのが、隋です。
かつての日本は南朝から冊封を受けており、異民族の北朝には臣従する必要がないと判断していました。
聖徳太子は、隋の統一を機会に中国との冊封関係を断ち切り、新たな関係を築こうとしたのかもしれません。
煬帝も認めざるを得なかった対等外交
聖徳太子の隋に対する外交姿勢は皇帝・煬帝を激しく怒らせました。
しかし煬帝は国書を受け取ったのち、裴世清(はいせいせい)という人物を使節として小野妹子の帰還に同行させたのです。
こうした対応は太子の要求を受け入れたといえるでしょう。
煬帝が裴世清に渡した外交文書には、隋へ使節をよこしたことへの煬帝からの感謝の言葉が書かれていたといいます。
そして日本は「東の天皇が西の皇帝に送ります」と返書をし、この後も何度か遣隋使を送ることになりました。
なぜ激怒した煬帝が、こうした対等的な外交関係を認めたのか不思議ですよね。
これは隋が高句麗への遠征を計画しており、日本が高句麗と手を結ぶことを恐れたためとされています。
そのほか仏教の存在もあるようです。
太子は仏教信仰を深めるため隋の仏教を参考にしたいと考えており、煬帝への手紙のなかで隋の仏教興隆を賞賛し、僧を派遣して学ばせたいとも書いています。
同じく熱心な仏教徒の煬帝は太子の心意気を喜び、日本に隋の仏教を伝えたいと思ったそうです。
聖徳太子の情勢判断が導いた成功
隋との対等外交の効果はてきめんで、新羅は任那の調を日本に届けるようになりました。
聖徳太子の戦略は大成功だったわけです。
大国への対等外交要求は下手すれば圧力を受けかねない大胆な策にも思えます。
ただし太子は無謀な挑戦に乗り出したわけではありません。
慧慈や渡来人などの情報から情勢を的確に判断し、隋は対等外交を認めざるを得ないと確信していたようです。
また遣隋使の派遣は外交上の問題を解決したばかりか、独立国家としての地位をいち早く確立させることにもつながりました。
複雑な国際情勢のなかで外交を成功させた聖徳太子は、優れた見識をもつ政治家だったのでしょう。
聖徳太子は新羅対策などを理由に、対等外交を求めて遣隋使を送りました。
当然リスクもはらんでいたものの結局は隋に認められ、それを知った新羅も恐れて日本へ使者をよこすようになります。
太子の的確な情勢判断のおかげで、大国を相手にしたウルトラCが成功したのです。