吉田松陰が松下村塾で教えていたこととは?偉人を多く生み出した教育方針

松下村塾

吉田松陰が塾長を務めていた松下村塾。
少人数の塾であり、しかも松陰が指導していた期間はたったの2年でしたが、高杉晋作や伊藤博文などの偉人を多く輩出しました。
松陰はいったいどんなことを教えていたのか、みていきましょう。

松下村塾での教育内容

松陰は、山鹿流兵法や孟子についての講義をはじめ、倫理学、地理学、歴史、経済さらには芸術まで幅広く教えていました。
とりわけ世界史には力を入れていて、自身が遊学中に培った知識をもとに講義を展開。
さまざまな角度から世界情勢を分析するよう塾生に練習させていました。

松下村塾では、松陰が前に立って講義を行うよりも塾生どうしで討論をするほうが多かったといわれています。
1対1の討論や、1人の塾生が前に立って講義を行ない、それについてみんなで討論をするという形式もありました。
ときには松陰も討論に加わり、逆に塾生から学ぶことも多くあったようです。
討論の主役は塾生たちであり、松陰はあくまでも脇役。
また松下村塾には、校則などの決まったルールはありません。
時間割もないですし、塾生が集まれば自然に講義や討論が始まります。
こうしたやり方には、塾生の自主性を育てようという松陰の教育方針がありました。
彼らは自発的に講義に参加し討論を重ね、知識をどんどん広げていくことになります。

ちなみに松陰は、塾生たちと餅つき、畑仕事や一緒に寝泊まりなどもしていました。
講義以外でも塾生と触れ合うことでコミュニケーションをとっていたのかもしれません。

行動の大切さを説く

松陰が尊敬していた孟子の名言としてこんなものがあります。
「至誠にして動かざる者は 未だこれにあらざるなり」
(誠の心を尽くして行動すれば、それに心を動かされない者はいない。)
松陰は、その名言どおり信念をもって教育に励みました。
行動することの大切さを説き、、世界に通用する人材を育成していったわけです。

松下村塾の塾生に対しては「学者のような学問だけの人間になるな、人間たる者『行動第一』であれ」といつも言っていました。
だからこそ彼らは日本を変えるために、あれほどの行動力を発揮できんでしょう。

また入塾希望の子どもには、必ずある質問をしていたといわれています。
「あなたは松下村塾に何を学びに来られたのですか?」と。
多くは「書物が読めないので、読めるようになりたくて村塾に来た」と答えるんですが、松陰は「書物なんか心がけをしておけば、自然と読めるようになる」と言ったそうです。
行動を重視する彼らしい発言といえますね。

塾生の短所を活かす

松陰は塾生の短所を活かしていくことも心がけていました。
一見すると欠点とも思える部分を直そうとせずに、塾生の成長に活かすことを考えていたんです。

松下村塾の塾生だった高杉晋作についてこんなエピソードがあります。
高杉は頑固で負けず嫌いな性格のため人の話をあまり聞かず、学力についてはほかとくらべて劣っていたそうです。
しかし松陰はそんな高杉の性格を無理に直さず、それを活かそうとします。
塾内で1番の成績を収めていた久坂玄瑞(くさかげんずい)をほめれば高杉も負けじと学問に励むはず、と考えたわけです。
松陰が高杉の前でことあるごとに久坂のことをほめちぎったところ、これが効果抜群。
高杉は持ち前の行動力を活かして学問に打ち込み、メキメキと頭角を現していくことになります。
久坂とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれるほどに成長しました。

このように松陰は、短所も活かしてその人の全体的な能力を伸ばしてやることを考えました。
短所を消して小さくまとまった人間にするような教育は行わなかったんですね。

吉田松陰は特殊な何かを教えていたわけではありません。
しかし教育方針は当時のほかの私塾とは一線を画していました。
塾生に自主的な討論を促し、行動することの大切さを説き、そして彼らの短所を活かすというやり方は松陰ならではです。
少人数の松下村塾から多数の偉人が生まれるのは納得の結果といえるでしょう。

この記事を書いた人

歴史スター名鑑 編集部

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