当たる予言に瞬間移動!?聖徳太子の数々の超能力とは

聖徳太子は超能力者だった!?

「10人の話を同時に聞いた」「予言をした」など超能力めいた伝説で知られる聖徳太子。
それらのエピソードには創作が多く、科学的な根拠はありません。
しかし1000年以上ものあいだ「神秘の聖徳太子」というイメージが作られていき、それを信じる人々によって聖なる太子が真の姿とみなされてきたのも事実です。

聖徳太子の超能力にまつわる文献としては、著名な『日本書紀』のほか、平安期に成立した伝記『聖徳太子伝暦』、平安から江戸時代にかけて発見された予言書『未来記』があります。
そららの遺物をもとに、太子の数々の超能力とそれらの伝説をまとめてみました。

現世だけでなく未来も予知

『日本書紀』では、聖徳太子について「兼て(かねて)未然(ゆくさきのこと)を知る」(これから起こることをすでに知っている)人物と記録されています。
太子の予知能力は日本の歴史書からお墨つきを与えられていたのです。

『聖徳太子伝暦』によれば、太子は幼いころから未来を予知していました。
5歳のとき、おばの豊御食炊屋姫(とよみけのかしやきひめ・のちの推古天皇)が将来天皇につくことを予言。
少年時代には、天皇が仏法の断絶を命じたことについて「国中に疫病が起こり、死者であふれるでしょう」と警告。
あるときには地震が起こることを予知し、天皇に震災対策を進言しました。

聖徳太子は、人の死期についても予知できたといいます。
父・用明天皇の短命、崇峻天皇(すしゅんてんのう)や百済の賢人・日羅(にちら)が不幸な死を遂げること、太子みずからの死期も予見しました。
自分の死後、息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を含め、一族が滅ぼされることもあらかじめ口にしていたようです。

太子が予知したのは自分の生きた時代だけではありません。
今から100年あまりのち奈良の地は都になるだろう」
(夢で見た山城(京都)の峰岡(はちおか)に行き)「200年後、聖王(桓武天皇)がここを都にするだろう」
とも予言しました。

前者は奈良時代の平城京、後者は平安時代の平安京のことと推測されています。
聖徳太子は自分の死後の未来のこともぜんぶお見とおしなのですね。

『未来記』に残された予言の数々

平安末期から江戸時代にかけて、『未来記』と呼ばれる遺物が各地で次々と発見されます。
これは聖徳太子が生前、予言を書き残し、各地に隠し置いたと信じられていたものです。

『未来記』は、石に刻まれた石記文、書物、書状などさまざまな形態で発見されました。
内容も仏教から世の中の動きまで多岐にわたります。
その多くが後世の創作とされるものの、発見した当時はそれなりに真実として受け入れられたようです。

公家で歌人として有名な藤原定家(ふじわらのさだいえ)も自身の日記に、「石に刻まれた『未来記』を見た」と記録しています。
その未来記の内容は後鳥羽上皇らが倒幕を目指した承久の乱(じょうきゅうのらん)のことで、朝廷の敗北と武士政権の到来を言い当てていました。

また後醍醐天皇につかえ鎌倉幕府の倒幕を目指して戦った武将・楠木正成(くすのきまさしげ)が四天王寺で見た『未来記』には、次のような文字が記されています。

人王(にんおう)九十五代に当たって、天下一たび乱れて、主安からず。
この時 東魚(とうぎょ)来たりて、四海を呑む。
日、西天に没すること三百七十余箇日、西鳥(せいてう)来たりて、東魚を食す。
その後、海内(かいだい)一に帰すること三年。
?猴(みこう)の 如き者、天下を掠すむること三十余年。
大凶変じて一元に帰す。云云(うんぬん)

正成はこれを次のように読み解きました。

  • 「人王95代」→96代後醍醐天皇
  • 「東魚」→鎌倉幕府
  • 「日、西天に没する」→後醍醐天皇が隠岐に配流されていたこと
  • 「西鳥来たりて、東魚を食す」→鎌倉幕府を倒す者が出現すること

(正成の解釈はここまで)

つまり後醍醐天皇が復帰して鎌倉幕府が倒れることを予言したものと考えたのです。
倒幕の実現を確信した正成は奮起し、ついに幕府を倒しました。
『未来記』が正成を後押しし、時代を動かしたといえますね。

その後の南北朝時代にも、後醍醐天皇につかえた北畠氏が「聖徳太子御記文(ごきもん)にある通り北朝滅亡は間違いなし」と書き残しています。
『未来記』は時代の転換期にいた人々の支えになっていたのでしょう。

江戸時代には『未来記』の集大成ともいえる『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)』(全72巻)が発見されます。
これは聖徳太子が編纂したと伝えられる神道や仏教の百科事典です。

第69巻の『未然本紀』(みぜんほんぎ)では、太子の死後1000年間の世の中の盛衰を100年ごとに予言していました。
たとえば「驕臣(きょうしん)、威に乗じて守君と称す(略)陪臣(ばいしん)、守君を弑(しい)して胤(いん、子孫)を断つ」という記述は、豊臣秀吉の栄華と没落を意味しています。
このほかにも平氏の没落、江戸幕府の開幕や鎖国などを予知していたようです。

さらに太子は、現代のことも予知していたのではと話題になっています。
最近、その予言として注目されているのが以下の内容です。

「私の死後200年以内に、山城国に都が築かれ、1000年ほど栄える。
しかし『黒龍』が訪れ、都は東に移される。
東の都は200年後、クハンダが来て、親と7人の子のようにわかれる。」

  • 「山城国に都が築かれ、1000年ほど栄える」→平安時代の平安京
  • 「黒龍」→江戸末期に来航したアメリカの黒船
  • 「都は東に移される」→明治維新で東京に首都が変わる
  • 「クハンダ」→仏教の教えが行なわれなくなる末法の時代に訪れる悪い鬼
  • 「親と7人の子のようにわかれる」→天変地異、疫病、戦乱などで国が乱れる

これは将来の日本滅亡を言い表しているのかもしれません。

そのほか太子建立と伝わる法隆寺の五重塔にも隠された予言が。
五重塔には塔の一階ずつにシャカの死後500年ごとの世界が描かれており、最後の5階で仏教の教えを実現する平和の時代が描かれています。
その最後の2500年後とは2100年代になる計算のため、2000年代の今から100年ほどは争いが続くことになるのです。
太子の予言が的中しないよう、自分たちで平和を築かないといけませんね。

自分の前世もすべて覚えていた

聖徳太子は未来を予知するだけでなく自分の過去(前世)もはっきり記憶していました。
わずか6歳のとき「自分は前世では中国の衡山(こうざん)で修行していた」と明かし、周囲を驚かせています。
しかも前世のことを詳細におぼえており、「目の前にあるお経は前世で見たものと比べて1文字ほど抜けている」などと指摘しました。

また聖徳太子は晩年、妻に自分の前世をすべて語っています。
それによると太子は中国の晋(しん。3~5世紀初めの中国王朝時代)の貧しい家に生まれた、それから6回も中国で生まれ変わっていました。
いずれも出家して厳しい仏道修行をしており、6度目は慧思(えし)という中国の高僧として生きていたといいます。
太子が生まれつき超能力を持っていたのは、過去の修行のたまものだったのでしょうか。

幽体離脱・瞬間移動で中国へ

聖徳太子は過去や未来といった時空だけでなく、空間を瞬間移動できるテレポート能力まで持っていたようです。
子どものころから軽々と空中に浮かぶことができ、雷電(らいでん)のような速さで疾走したとも。
さらに前にいたと思ったらいつの間にかうしろ、うしろかと思えば前というように次々と瞬間移動し、だれもその姿をとらえられなかったといいます。

大人になった聖徳太子は、この不思議な力を使って中国に出かけました。
前世にもっていたお経のひとつ法華経(ほけきょう)を中国・衡山(こうざん)に置いてきたままにしていたと気づいた太子が、みずからの魂を衡山まで飛ばし、法華経をとってきたのです。
幽体離脱と瞬間移動の合わせ技といえますね。

太子は異世界とも交流し、その拠点としたのが斑鳩宮(いかるがのみや)の「夢殿」と呼ばれる建物です。
ここは瞑想空間で、太子が経典の解釈に悩むと金人(きんじん。仏)が現われ助言するなど、仏神と交流を行う聖なる空間でした。

馬に乗って空を飛んだ

時空をも自在に超えた聖徳太子には、空を飛んだという伝説も残されています。

あるとき、甲斐国(かいのくに。現在の山梨県)から多数の馬が献上されました。
太子はこのなかから足が白く体が黒い馬・黒駒を神馬(しんめ。神の使い)と見抜き、飼育を命じます。

やがて太子が試乗したとき馬は太子を乗せたまま天たかく飛び上がり、雲をふみわけて富士山の頂上も軽々と超えたのです。
信濃(しなの。長野県)から越後(えちご。新潟県)まで天を駆け抜け、3日ほどして都に帰還しました。
そのほかの伝説では、太子が黒駒に乗って3日3晩で諸国をめぐり、国と国の境界や自身の墓所を天空から見定めたと伝えられています。

こうした諸国巡行によるものか、各地には太子の新たな伝説が生まれることにもなりました。
そのひとつ兵庫県太子町は、太子が推古天皇より与えられた地です。

同地を訪れた太子は山の神との話し合いで、石を落とした範囲の土地を得ることになりました。
すると太子は、超能力で非常に大きい岩を遠く海岸まで飛ばしたのです。
土地を全部とられるとあわてた神の頼みにより、太子は小石を拾い集めて指先ではじき、その範囲の土地をもらったのでした。

これだけあった超能力

そのほかの聖徳太子の超能力として、もっとも有名なのは10人の話を聞き分けた能力ですね。
『聖徳太子伝暦』では、11歳のときに36人の子供の話を聞き分けるという力を発揮しています。
こうした記憶力だけでなく、腕力でも太子に勝てる子どもはいませんでした。

そもそも聖徳太子は生まれながら不思議な能力をもった子どもだったようです。
観音菩薩のお告げを受けて生まれ、仏舎利(ぶっしゃり・釈迦の骨)を握って誕生したといわれています。

聖徳太子は生まれて数か月後に言葉をあやつったばかりか、2歳には「南無仏(なむぶつ)」と唱えました。
少年時代には、蘇我氏に属して物部守屋(もののべもりや)との戦いに出陣し、勝利の願かけ祈願。
すると太子に不思議な力がつき、敵の矢を受けても傷つかなかったとか。

また、ときには聖徳太子の身体そのものにも異変が起こっています。
外国の王子が太子の神々しさに思わず「観音菩薩さま」と礼拝すると、太子の眉間から仏のようなオーラの白い光が放たれたのです。
これは平安時代ごろから観音菩薩の生まれ変わりとみなされた太子らしい逸話ではないでしょうか。

聖徳太子には、時空間を自在に往来する予知能力、瞬間移動するテレポート能力、とてつもない記憶力など非常に多くの超能力を持っていという伝説があります。
とくに太子の予言は、『未来記』を通じて後世の人に大きな影響を与えました。

もちろん、そうした不思議な力に根拠はありません。
ただし神秘の聖徳太子こそ、後世の人々が長いあいだ求め続けた太子像だったのだと思います。

この記事を書いた人

葉月ねねこ

日本史を愛してやまないライター。とくに謎が謎を呼ぶ歴史ミステリーが大好き。歴史の魅力を多くの人と共有したいと願う。