なぜ聖徳太子が摂政に選ばれた?推古天皇との関係からみえる3つの理由
推古天皇
『日本書紀』によると593年、天皇の座についてまもない推古天皇が聖徳太子を摂政に任じています。
摂政とは天皇の政治を助け、ときには天皇の代行として政治を執り行う役職のこと。
当時の摂政は役職というよりも役割というべきもので、皇族がつとめました。
その皇族のなかで20歳前後と若かった聖徳太子が摂政という大役に選ばれたのには、3つの理由があります。
推古天皇との人間関係にも触れながら、それぞれをくわしくご紹介しましょう。
理由①:皇太子だったから
ひとつめの理由は、聖徳太子が皇太子に選ばれていたという点です。
『日本書紀』のなかに、推古天皇が太子を皇太子に任命したとの記述が残されています。
飛鳥時代の摂政は、その職務の重要性から皇族でも天皇に近い地位の人がつくのが当然でした。
次の天皇を約束されている皇太子つまり当時の聖徳太子は、天皇家の中で実質的なナンバーツー。
摂政になってもおかしくない地位といえるでしょう。
ただ、当時は皇太子を決めるルールが決まっておらず、実際のところ聖徳太子は皇太子に選ばれなかったともいわれています。
摂政になった理由づけのために、『日本書紀』などに「聖徳太子は皇太子だった」と付け加えられたというのです。
とはいえ聖徳太子が次の天皇の有力候補だったことは間違いありません。
なぜなら推古天皇が天皇につく前、次の天皇候補者のなかに太子も入っていたからです。
このときは候補者以外の推古天皇が即位しましたが、その次の天皇の候補としても太子の名前が挙がっていました。
このように聖徳太子は皇族の中でも、皇位継承者にふさわしい地位を備えていたわけです。
理由②:聡明だったから
ふたつめの理由は、聖徳太子が優秀だったからです。
聖徳太子といえば、10人の話を聞き分けた伝説が有名ですね。
じつは小さいころから太子の神童伝説は多数あり、抜粋しただけでも以下のような伝説があります。
- 生まれた時からしゃべった
- 2歳で誰にも教えられずに南無仏と唱えた
- 5歳で敏達天皇(びだつてんのう)の皇后が将来天皇になると予言した(推古天皇のこと)
- 6歳でお経を100巻読破した
- 11歳で36人の子供のいうことを聞き分けた
賢いというよりもまさしく神童レベルですよね。
もちろんこれらは事実でないものも多いでしょうが、聖徳太子はかなり優秀であったと推測できます。
当時、推古天皇は摂政には何より優秀な人材を求めていました。
国内で内乱や天皇が殺されるなど混乱が続いており、国の立て直しが急務だったからです。
そのうえ推古にはもうひとつの望みがありました。
天皇をもしのぐ勢力を持つ豪族・蘇我氏の力を弱めて、天皇主導の政治に戻したいと考えていたのです。
混乱する国内をまとめあげ、向かうところ敵なしの蘇我氏の権力を抑えて新しい政治改革を実行する……。
この目標を成し遂げるためにはどれほど有能な人材が必要かおわかりでしょう。
推古天皇が皇族を見わたしたとき、一番デキる人材として目を付けたのが聖徳太子です。
推古は太子に政務をとらせ、自分は馬子との調整役をつとめようと考えました。
理由③:親戚かつ娘婿だったから
みっつめの理由が血縁関係です。
聖徳太子は推古天皇にとって血縁的に近く、信頼できる人物でした。
なぜなら太子の両親はどちらも推古と兄弟姉妹、つまり父方、母方ともに叔母と甥の関係にあります。
とくに太子の父・用明天皇と推古は親しい関係であり、用明天皇が亡くなるとき推古は一緒にその枕元で遺言を聞いてのちに太子の法隆寺建立に協力しました。
また聖徳太子の妻・菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)は推古天皇の娘であり、ふたりは婿と姑という義理の親子関係でもあります。
さらに菟道貝蛸皇女が早くに亡くなると、次の妻として推古の孫にあたる橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が迎えられました。
太子と推古は婿と姑という絆で長く結ばれていたわけですね。
そして、蘇我氏との親戚関係という点でも聖徳太子は摂政候補として完璧でした。
もともと太子は両親の母がともに蘇我氏であり、いわば蘇我系皇族です。
しかも驚くことに蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)も妻に迎えていました。
聖徳太子は推古天皇だけでなく蘇我馬子の娘婿にもなっていたのです。
推古、馬子ともに理由は何であれ、娘婿の太子を皇太子にしたいという利害は一致していたに違いありません。
こののち推古、太子、馬子という三頭体制(3人で政治を行うこと)で政治が行なわれました。
推古天皇はこの三頭体制の裏で、蘇我氏の後ろ盾を得る自分が、蘇我氏の力を抑えるという難しいミッションに挑むことになります。
この点においても、強い絆を持つ聖徳太子への摂政任命は推古にとって必然の選択だったのでしょう。
聖徳太子と推古天皇は仲が良かった
聖徳太子が推古天皇に信頼されていたことからもわかるとおり、実際にふたりの人間関係は良好だったようです。
あるとき聖徳太子は、飛鳥の都の北西約20キロ離れた斑鳩(いかるが)に自分の宮を移すことにしました。
すると推古天皇は涙を流し「何を頼りにすればいいのか、いかないでほしい」と訴えます。
この思いを受け、太子は「離れて住んでもおそばを離れません」と答え、毎日斑鳩から馬で飛鳥の都に通ったそうです。
ふたりの絆がうかがえますよね。
また、聖徳太子と推古天皇には仏教という精神的なつながりもありました。
推古は仏教思想を精神的支柱にして国造りを進めていましたが、仏教は新しい文化で分からないことばかりだったといいます。
そのなかで太子は熱心に仏教を学んでおり、推古はそんな太子を信頼し仏教の講義をしてほしいと頼んだそうです。
推古はお礼として太子に土地を与え、それが法隆寺の寺料となりました。
ふたりは血縁という関係に加え、政治、そして仏教という精神面を通じて信頼関係を築いていったようですね。
推古は自分より若い太子が先に死んだことに相当な衝撃を受けたといいます。
太子の葬列を遠くから見守りながら、袖(そで)が乾く間もないほど涙をとめどなく流したとか…。
そんな推古天皇の思いを伝える物が、聖徳太子のゆかりの法隆寺に現在も残されています。
国宝の玉虫厨子(たまむしのずし、ずしとは仏像や経典を納める仏具。それに玉虫の羽の装飾を施したもの)です。
一説によると推古天皇の愛用品ともいわれています。
推古は厨子に小さな仏像を納め、太子をしのび拝んでいたのかもしれません。
推古による太子暗殺説も
うまくいっていたようにみえる聖徳太子と推古天皇。
しかしその内実は真逆で、複雑な思いが交差していたとする見解も存在しています。
聖徳太子は49歳で急死しますが、太子の妻のひとりである膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)と1日違いに死んだことや自分の死を予言していたことなどから暗殺説もささやかれました。
犯人としてはさまざまな人の名前が挙げられていますが、推古天皇に動機があったという説もあるのです。
推古天皇には実の子である竹田皇子がいました。
皇子は母より先に亡くなったことはたしかですが、いつ亡くなったのかは定かではありません。
推古の即位前に亡くなった説が有力な一方、聖徳太子が摂政に就任したあとも生きていた可能性もあります。
推古天皇は蘇我氏の推薦や資質の問題もあり、太子をいったん摂政にしました。
いずれ竹田皇子に皇位を譲るつもりでしたが、太子の名声が高まり機会がなくなったため実力行使に…。
殺害の証拠は見つかっていませんが、このような暗殺説が存在しています。
推古は太子を仕事面では信頼していた一方で、屈折した思いを抱いていたのかもしれません。
太子が斑鳩へ移った背景には、そんな推古の思いを察した可能性もあるでしょう。
聖徳太子は、血統、資質、血縁関係において必要な要素をすべて兼ね備えており、当時の摂政に最適な人物だったといえます。
推古天皇の期待にこたえ三頭体制で国を平穏に保ち、天皇を中心とした国家体制の基礎を築きました。
その実現は血縁に加えて、仏教を精神的支柱にしたふたりの良好な関係があったからでしょう。
いっぽうで、ふたりのあいだに竹田皇子を挟んだ屈折した思いがなかったとも限りません。
複雑に絡み合った血縁関係だからこその愛憎があったのでしょうか。