政敵それとも協力者?聖徳太子と蘇我馬子ら蘇我氏の関係性とは

蘇我馬子が埋葬されたとされる石舞台古墳

推古天皇のもと共同で政治を行ったとされる、聖徳太子と蘇我馬子。
ふたりは親戚関係にありましたが、その仲については政敵でライバルだったという説と協力者だったという正反対の説が存在しています。

今回は聖徳太子と蘇我馬子の関係性を主軸に、太子と蘇我氏一族とのつながりをみてみましょう。

親戚であり仏教信仰の仲でもあった

聖徳太子は、蘇我氏を有力豪族に押し上げた蘇我稲目(そがのいなめ)のひ孫にあたります。
そして稲目の子・馬子からみると、太子は又甥(またおい、姉妹の孫)です。
太子は生まれながらにして蘇我氏と親戚の関係にあったわけですね。

さらに聖徳太子は馬子の娘、刀自古郎女(とじこのいらつめ)を妻にしており、馬子にとっては太子は婿すなわち義理の息子でもありました。
こうして太子と馬子は関係をさらに深めていくこととなります。

また聖徳太子と蘇我氏は、当時まだ珍しかった仏教をあつく信仰した仲でもあったようです。
太子が幼いころから仏教に親しんだのは、仏教受け入れを進めていた蘇我馬子の影響を受けたからだといわれています。

少年時代の太子は馬子と一緒に寺の用地探しに奔走しました。
また仏教を信仰したいという用明天皇(ようめいてんのう。太子の父)に賛同した馬子を、太子が賞賛したという逸話も残されています。

仏教を排する物部氏(もののべし)を馬子が倒した戦いでは、当時14歳だった太子が蘇我氏側に参戦しました。
このとき馬子は劣勢に立たされましたが、太子が仏に祈願して蘇我氏を勝利に導いたという伝説も存在しています。

このように太子は蘇我氏の親戚であっただけでなく、仏教推進においても近い関係性でした。
日本の仏教の道を切り開いた同志であり、太子少年は蘇我氏から大いに期待をかけられていたようです。

政敵として対立関係にあった

推古天皇が即位すると、聖徳太子は大臣の蘇我馬子と共同で政治をとる立場になります。
太子は仏教を理念にすえ、憲法十七条や冠位十二階などの改革を実施していきました。

しかし一説によれば、太子は馬子と敵対するようになっていったといいます。
天皇中心の統一国家を目指して天皇の力を強めたい太子と、豪族の勢力を守りたい馬子とのあいだに溝が生じたのです。

冠位十二階や憲法十七条を制定した狙いは、国家の制度づくりだけでなく、豪族の力を抑えることにもありました。
そのため太子は、豪族代表の馬子からことごとく改革を妨害されたようです。

また太子が605年に飛鳥から離れた斑鳩(いかるが)へ移転したのは、馬子との政争に敗れて政治の一線から退いたためともいわれています。
斑鳩に移ったあとの太子は、遣隋使を派遣したのち文化的な事業のみを行い、政治の表舞台にはほとんど登場していません。

さらには聖徳太子が蘇我馬子に殺されたという説も。
太子の死が突然死だったこと、妻と一日違いの死だったことなどから暗殺説がささやかれており、その犯人候補のひとりとしてあげられているのが馬子です。
対立する太子の天皇即位を阻止するため、馬子が太子を手にかけたのかもしれません。

政治的に協力関係にあった

上記とは正反対の説も存在しています。
聖徳太子は蘇我馬子と良好な関係を築いて協力して政治を行ったともいわれており、現在ではこちらの説が有力視されているようです。

おそらく若い太子が豪族を抑えて改革を遂行するのは難しく、経験豊富な馬子の力を必要としたのでしょう。
とくに豪族の反対も予想された冠位十二階は、蘇我氏の力なくしては実現できなかったといいます。
実際のところ蘇我氏は冠を授ける側に回っており、この政策の実行者のひとりだったのは確かです。

また聖徳太子が飛鳥から斑鳩の地に移ったのも、馬子との政争に敗れたためではなく、外交のための進出だったといいます。
当時の斑鳩は、東アジアの窓口・難波から都の飛鳥へといたる水陸交通の要所でした。

そして聖徳太子と蘇我馬子が政治にあたっていた時代、国内では内乱がなく安定的な治世が続いています。
これこそ太子と馬子の協力がうまくいっていた証ですね。

聖徳太子の人柄や功績について馬子から認められていたエピソードも残されています。
馬子は亡くなる直前に、「太子の墓前で自分がひざまずいている絵を描かせて墓前に飾り、人々に見せなさい」と遺言したそうです。
仏教理念への思いも一致していたふたりは、政治的にも最良のパートナーだったのかもしれません。

太子は蘇我氏との関係を断ちたかった?

聖徳太子と蘇我馬子は協調して政治に取り組み、お互い相手のことをそれなりに認めていたようです。
しかしそれはあくまでも政治的な立場であって、内面では両者とも複雑な思いを抱き、単純に親戚、同志として仲良しだったわけではないとの見解も存在しています。
とくに太子には晩年、蘇我氏から距離をおいたと思われるふしがあったといいます。

かつて太子は崇峻(すしゅん)天皇やその兄の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺した馬子のことを「報いは免れない」と批判しました。
蘇我氏の専横を心中では苦々しく思っていたようです。

それでも大人の対応で政治的に馬子と協力していたものの、改革の成功が蘇我氏の勢力も伸長させました。
たとえば馬子の子・蝦夷(えみし)は、大臣の馬子に次ぐ大夫(まえつぎみ)の地位についています。

聖徳太子にとってこうした状況は蘇我氏の一族として喜ばしいことですが、天皇家の一員としては複雑な状況だったでしょう。
この矛盾のなかで太子は晩年、ある決断をしたといわれています。

聖徳太子には、馬子の娘とのあいだに生まれた山背大兄王(やましろのおおえのおう)という後継ぎの皇子がいました。
この山背大兄王は馬子の孫でもあり、将来の皇位を継ぐ有力候補です。
しかし太子は山背大兄王をその異母妹と兄妹結婚させただけで、蘇我氏の娘と婚姻を結ばせなかったのです。

これではいずれ蘇我氏との縁が切れてしまいますが、天皇側の人間として生きるという太子の
蘇我氏との決別宣言とも考えられます。

ちなみにこれは聖徳太子一族が蘇我氏の後見を失うことも意味しました。
太子と馬子の死後、蝦夷は山背大兄王を見限り、馬子の娘を妻にしていた田村皇子を非蘇我の皇族ながら天皇につけます。
さらに蝦夷の子・入鹿(いるか)は、邪魔になった山背大兄王一族を滅ぼしたのです。

こうした結果を予測していたのか、太子が亡くなる少し前に「自分の子孫は続かない」と予言していたという伝説があります。
異国の法師による「太子の死後、挙兵があり、太子の一族は滅びます」という予言に同意したとする話も。

一族が滅ぶことになってもこれ以上は蘇我氏の専横を助けないという、太子の強い決意が感じられます。

聖徳太子と蘇我氏は親戚関係であり、太子と蘇我氏は政治的な立場では協調していたようです。
しかし太子は、血縁で結ばれた蘇我氏と自分もその一員である天皇家とのはざまで、複雑な思いをかかえていたのでしょう。
苦悩の末に、一族に栄光をもたらすはずだった蘇我氏との関係をたち切ったのかもしれません。

この記事を書いた人

葉月ねねこ

日本史を愛してやまないライター。とくに謎が謎を呼ぶ歴史ミステリーが大好き。歴史の魅力を多くの人と共有したいと願う。